四十五杯目「ドーナツのまあるい夕焼け」
生まれた時から「ドーナツ」と呼ばれている。
何故そう呼ばれるやうになったのかは定かでない。
物心がついた時には「ドーナツ」だった。
特段気に入ってはおらぬ。
かといって嫌いなわけじゃない。
「ドーナツ」と誰かが声をあげれば、吾輩はそちらを向く。
機嫌がよろしければ、「ニャア」と愛想の良い声で答えるかもしれぬ。
反対に虫の居所が悪ければ、押し黙ったままピクリと耳を動かすに過ぎぬだろう。
名とはそういうものだと吾輩は認識しておる。
シニャフィアンとかシニャフィエとか、名について殊更真剣に考えた人間がいる。
一方で家人のように吾輩を「ドーナツ」と名付ける者もいる。
どちらが尊いということもないのだろうが、人間たちの名に対する意識はこちらが心配になるほど千差万別である。
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(四月一)
君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない