# 渋谷
少し伸びた髪を固い整髪料で整えて、いつもと違うフレームの眼鏡をかけて、渋谷に行った。ひと昔前のロックミュージックを聴きながら人混みの中を泳いでいれば、誰かに会える気がして。
渋谷の雑踏にはたくさんの人間がいた。
大きなブランドロゴの印字された赤いパーカーを来た人。ギラギラと光沢のあるスニーカーを履いた人。手触りの柔らかそうな春色のコートを着た人。随分と長いマフラーを何重にも巻いてる人。アジア人も欧米人もアフリカ系の人もいて、忙しない人も呑気に口笛なんか吹いてる人もいた。
でも、僕の会いたい人はいなかった。
☆
誰かに呼び止められたと思ったら、ティッシュ配りの若い男で、ポケットティッシュと男の中指の大きな黒いリングが目に飛び込んで来た。男は黒いキャップを被って、ゴツいヘッドホンで音楽を聴いている。ポケットティッシュを手に取る。「〇〇メール」出会い系のチラシだった。
タワレコ前、騒音を上げて行くトラックの荷台の大きな広告に映る美少女と目が合う。少しゆっくり何かを考えながら歩きたいのに、こんな時に限って青信号、青信号、青信号。
砂漠の砂粒のように人が流れていくスクランブル交差点。ハチ公前はもちろん、ツタヤの上のスタバにも、京王とJRを結ぶ透明な通路にも、ビルのバルコニーにも、いたるところに人がいる。道路には車、頭上には飛行機、そのさらに頭上には人工衛星が飛んでいた。
そこら中、青信号、青信号、青信号……
このうちの何人に僕の言葉が届くのだろうかと想像すると、吐き気がした。僕は逃げるように線路沿いの狭い路地に移った。誰かに会いに来たという目的はとうになくなって、とにかくひとりになりたかった。
☆
どこにでもあるコーヒー屋で、どこにでもあるコーヒーを飲んで、鞄から文庫本を取り出して夜を待った。そうしているとひどく心は落ち着いた。日付が変わってから暫くして、捲る頁はなくなり、コーヒーはカップの底で茶色い塊になった。本はアメリカのSF小説で、地球から火星に辿り着いた宇宙船のクルーが火星で精神病棟に入れられ、最後は銃殺されてしまう話だった。
「あなたの狂気は、美的見地からすると完璧です!」火星の精神科医は宇宙船の船長にそう告げる。彼が地球人であることを火星人は最後まで認めなかった。
僕は再び路上に出た。
風は少しひんやりしていたが、昼間のそれに比べると悪くないものだった。ポケットに手を突っ込んで歩く歓楽街。ホームレスが空き缶を集めている。ピンク色のハイヒールの女が黒いジャケットの男に手を引かれている。妙にネクタイが長い男と、妙にネクタイが短い男が肩を並べて歩いている。みんな随分と酔っ払っているみたいだ。
僕は喧騒を抜け住宅街へと入っていった。宅配屋が帰り道を急いでいた。服屋が洋服を丁寧にたたみ直していた。コンクリートの建物の二階の灯りの下、マネキン相手にカットの練習をする若い美容師がいた。小説家はマッキントッシュの画面に向かって難しい顔をしている。
僕は泳ぐ、街を。
夜の港のような駐車場。ベンツ、ポルシェ、ロールスロイス…そこにはいくつもの高級車が並んでいた。だが奴らはみんな闇夜で眠りについている。
「夜に世界は作られるのさ」という詩人の言葉を思い出した。
今は夜。
それも真夜中だ。
「変えてしまうんだ、全部。奴らが寝ているうちに、急げ!」
僕はまだ誰にも中指を立てられずにいた。
もちろん自分にも……
☆
歩道橋を歩いた。
夜の渋谷は静かな海だった。
見上げると大きなクレーンが動いていて、街が作られていた。
「変えてしまうんだ、全部!」
つまるところ、何かを成し遂げるには少しばかり狂ってみないといけない。たとえ相手が火星人であってもだ。
僕は考えた。
夜はあと何度来るのだろう?
あとどれくらい起きていられるのだろう?
みんな何処から来て、何処へ帰っていくのだろう?
いつになったらスクランブル交差点は無人になるのだろう?
いつになったら……?
もうすぐ夜が終わる。
早くこの心を言葉にしないと。
早く!
僕はポケットティッシュを広げ、そこに短い詩を書いた。ティッシュペーパーは、ぼろぼろでインクが滲んでしまって、それは読めたものではなかった。だが、とにかく書きつけた。それはとても美しい詩だった。そして、そのティッシュペーパーを丸めてクレーンの先に放り投げた。
クレーンは再び空に伸びていった。
見上げると、その向こうに朝が来ていた。
君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない