漫画「長い道」について語る
はじめて梅酒をつけた。いつ飴色になって美味しく飲めるかな。
梅酒を漬けた時に思い出したのが、こうの史代先生の「長い道」。
全く梅酒の話ではないのだが思わず読み返した。能天気な妻・道と、甲斐性なしな夫・荘介の日常を描いた漫画である。
※以下、ネタバレを含みます
「わたし貴方と結婚できて良かった」「こんな夜中に一緒にさんぽしてくれる人がいるっていいわね」
(p6〜、「夜の道」)
序盤はとにかく不思議でコミカル。荘介は早速他の女と会ってきたと思わせる描写から始まり、道は荘介のコートから女のピアスを発見するが全く気にも留めない様子。
というのも、この2人、恋愛結婚ではなく、かと言ってものすごく不本意というわけでもなく、大変不思議な馴れ初めなのだ。
お互い大切に思い合う夫婦という状態ではないものの、穏やかに2人の毎日は過ぎていく。荘介はすぐに無職になったりするため常にお金がないものの、慎ましい2人の生活が垣間見れる。(これがまたファンタジー的で面白い、無声映画のような話もあったりして大変幻想的)
道と一緒に過ごす間も、荘介が過去に遊んできた女が何人も登場する。一見荘介が悪い男のように思われるが、わたしが思うに本当にヤバいのは道の方である。
道が荘介のもとに嫁に来た本当の理由は、荘介の住む街に忘れられない昔の恋人・竹林どのが住んでいるからであった。
いつも能天気でニコニコして掴みどころのない道が、たまたま再開した竹林どのの前では明らかに女の顔になる。(p22〜、「で誰?」)
荘介も気になって仕方がない様子。というか、この辺りから荘介の方が道を気にしている描写はちょくちょく出てくる。
風邪をひいて寝込む道が、うわごとで竹林どのの名前を呼んでしまうが、荘介はそんな道に対してなんとか竹林っぽく振る舞おうとしてあげる。(竹林のことを知らないにもかかわらず、である)そして最後は手を握って眠る。(p35〜、「夢枕」)
寝ぼけて他の男の名前を呼ぶなどということは普通の夫なら激怒してもおかしくない出来事だと思うが、この頃の2人の距離感だから成立している。この漫画のミソとも呼ぶべきところで、本当に恋愛して結婚した夫婦なら絶対にこうはならんやろ、ということが全編に散りばめられていると思う。
そして今回この漫画を思い出すきっかけとなった初夏の梅酒の話。(p62〜、「やった!」)
梅酒を漬けている道の横でホワイトリカーを要求する荘介。ホワイトリカーをあとちょっとあとちょっと、と2人でどんどん飲んでいくうちに泥酔してしまいそのまま初めてを迎えてしまうという話である。いい仕事した梅酒。
めちゃくちゃサクッと描かれており生々しさなどは全くないし、この後2人の態度が変わるとかいうこともなく、1話であっさり完結するが、他の話からするとかなり異質。
そんなわけでとうとう致してしまったものの、道は「もし荘介どのの願いがかなって 本当に大切だと思う人に出逢ったとき おかえりと言うのはわたしではなくなるのかもね」などと言っている。(p65〜、「貧乏神!」)
この夫婦の根底には「いつかお互いが本当に大切な人と結ばれたとき」と言う前提が常にある。共同生活の域を出ないこの夫婦が明らかに変わり始めるのは冬のこと。(p84〜、「蓋の上」)
このエピソードはとても好き。こうのさん、下手な少女漫画よりキュンキュンさせてくれる。荘介はろくでもない男だが、単純な女代表としてはモテるのもわかるわ〜〜という話である。
絵で見ないとこのキュンキュンは伝わらないのでこれ以上言うことはないのだが、とにかくキュンキュンする。道も動揺してる。この2人の場合順序は逆だけど恋ってこういうのから始まるよなあ?と思わせられる話。
少しずつ心が通い始めた2人に離婚の危機がやってくる。実家から道にお見合いのすすめが届く。(結婚してるのに見合いのすすめとはなんぞ?と思うが、こういう実家だから荘介と道は結婚した)(p94〜、「なごり雪」)
「えっリコン…………していいの?」と道にお見合いを勧める荘介だが、道を送り出した後、名残雪を眺めながら物思いにふける。一緒に暮らした人が突然いなくなる、そういう時に大切さに気づくもんだよね…。
なんだかんだで離婚の危機は免れるが、その後ついに道は荘介に自分の想いを伝えることになる。
雨の日に駅まで迎えに来た道の傘には竹林の名前が書かれていた。過去に竹林から譲り受けたであろう傘を今でも大切に使う道に荘介は尋ねる。
「お前 竹林賢二がこのへんに住んでんの本当は知ってたんじゃねえの?」「だからうちに来たんだろ?え?」
「そうよ」
荘介は終始コミカルな表情だが、ここで道が初めて敬語を崩す。おそらくこれが本当の道の想いだったのだろうと思わせる描写である。
そしてこの話は以下のように続く。
「あの人の詳しい住所も知らないし 会えるとも思わなかったけど」「あの人の街に住んでいるなら きっといい人だという気がしたのです」「それでわたしは荘介どののところに来たのでした」
(p.106〜、けんか傘)
これまで竹林どのの影がちらついていたが、この台詞でようやく道が後ろ向きな気持ちで荘介の元へ来たわけではないとわかる。この気持ちを口に出せるようになったということは大きな意味を持つと思う。
そして、この話でこれまで揺れ動いてきた道の気持ちがついに成就する!というのがp149〜、「道草」である。
「ヨシヨシ可哀そうになあ 道」「親の言いなりに結婚して 好きでもない男にめし作って」
荘介は求人誌を見て、道は掃除機をかける。何気ない日常で、何気なく宗介が言った。
「…好きでもない男?」
道は聞き返し、荘介が茶化して会話は終わり、荘介はパチンコの景品のハンカチを「お前に似合いそうじゃん」と道にプレゼントする。
「…気に入らないか?パチの景品だから?」
「いいえ 好きですよ……」
この「いいえ 好きですよ」この台詞は、荘介にとってはハンカチに向けられたものだが、わたしが思うに間違いなく「好きでもない男」にかかっている。つまり、道は一緒に過ごすうちに、ちゃんと荘介のことを好きになっていたのだ。
そして、堂々と荘介に好きだと言えなかった理由がその後登場する。
道は竹林どのと再会する。
竹林どのは、シングルマザーと結婚をしようとしていると道に話す。
両親には反対されているが、あの時でもう慣れてる、と。
「あの時」それは竹林と道が結婚を反対されてやむを得ず別れたこと、お互い嫌いになって別れたわけではないと言うことを意味している。
竹林は道が結婚したことを知っており、まさかおかしな事情で結婚したとは全く思っていないため、道が幸せになったのか心配はしていなかった様子だが、道はずっと竹林が幸せになったか心配していた。自分1人が幸せになるわけにはいかない、そんな思いで、荘介を心から好きにならないようにしていたとも感じられる。
けれど、竹林が他の女性と結婚すると聞き、ようやく本当に幸せになれると感じたのだろう。
「ずっと待っていたのですよ わたしはこの日を 竹林どの」
「わたしもシアワセになってもいいのですよね?」
道の歩いてきた、竹林と決別し、荘介と本当に夫婦になるまでの長い道。それがこの物語なのだ。
そしてその後、荘介にも転機が訪れる。荘介が8年ごとに「ほうき」にまつわる女性と出会い恋をする描写が描かれ、前回の恋から8年経った年に、「本当に大切だと思える相手」と思しき女性にほうきにまつわる出会いをする。(p182〜、「ほうきと荘介」)
「ごめん 道」「今度はほんとにしばらく戻らないと思う」
馬鹿正直にそう告げて他の女の元へ行く荘介を、道は元気でと言って送り出すが…。
荘介が道のことを「本当に大切だと思う人」だと自覚するエピソードである。
そうしてお互いがお互いを大切な存在だと自覚してからも、2人の生活は続き、長い道は続いていく。
そしてこの漫画は「あとがき」までがひとつの作品だ。こうの史代さんのあとがきの大好きな一文を引用させていただく。
貴方の心の、現実の華やかな思い出の谷間に、偽物のおかしな恋が小さく居座りますように。
こうのさんの願い通り、この物語はわたしの心に住み着いている。
出会い方こそ普通と違い、おかしな始まりではあるが、2人が名実ともに夫婦になるまでの物語は、間違いなく「恋」の話であり、結婚生活とは実はこういうものかもしれないと思わせられる不思議なお話。
そして「梅酒」からもわかる通り、四季折々の描写がありそれが本当に文学的で美しくて、季節の変わり目に何度も読み返したくなる、そんな漫画だと思う。
物語は完結したけど、これからも2人の長い道はずっと続く。これは偽物の恋かもしれないけど、これからもわたしの人生に何度も顔を出すだろう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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