見出し画像

明治,大正,昭和,平成 メイ (令和)

 明治生まれの女性を一人知っている。名前は仮にメイ。近くの川がよく氾濫して、きょうだいを何人も亡くした。生き残りのメイは、とても大切に育てられた。人生が展開するのは結婚してから。

 歩いて2時間ほど離れた集落に嫁いだ。結婚式の日が初対面。新郎は現れなかった。姑は寝たきりで心が荒んでいた。介護しながら家事をして畑を耕し山仕事をこなした。家は山畑を広く持っていて、集落の人々が多く出入りした。姑は来客の気配があると、聞かせるように嫁がごはんをくれないと騒いだ。メイは気が強く、自己肯定感が高かった。お世話をしているのに非道い仕打ちをされれば、食事を与えないくらいしたであろう。


 子どもは8人授かった。女のところから帰らない夫を、末の息子に迎えに行かせた。子どもたちを愛して育てた。長男が成人してから大ケガをした。その治療のために山はほとんど売ってしまったが、長男は回復して家庭を持てた。長男をリヤカーに乗せて何時間もかけて病院に通う両親を見ていた娘たちは全員、看護士資格を取った。息子たちは会社を起こし、戦後の昭和を駆け抜けた。「お母さん」だったメイは、子どもたちから感謝され、尊敬され、愛された。
 メイは7人の子どもたちを立派に自立させたが、娘を一人亡くしていた。19才で自死だった。理由はよくわからない。晩年に亡くなるその日まで、仏壇に線香と水を毎日供えていた。

 必ず夕方5時から呑み始める夫のお世話をして、何年か過ごした。なぜか人の出入りは相変わらずあって、毎週末近所の人々が民謡やカラオケの練習という宴会をしたので、台所仕事がそれはそれは過酷だった。来客の女性たちは煮物やきんぴらを持ち寄って一緒に働いてくれたが、無数の徳利を湯煎にかけ、根菜の天ぷらを揚げ続け、宴会の部屋まで上げて下げた。そもそも午後の日が高いうちから大量のうどんを打つのだ。外のかまどで薪をくべて大釜でゆでる。昭和40年代の頃、男どもは食べて飲んで歌って良い気分だ。畜生。

 酒呑みの夫は76才で倒れてそのまま亡くなった。末の息子が嫁と孫を連れて同居することになった。謎の宴会は終わった。目がよく見えない。肩も腰も膝も痛い。毎日のように病院に通い、年金を使って旅行会社が企画するバスツアーに出掛けた。伊香保、湯沢、温泉だ。少し残した畑を世話して、近所を散歩して知り合いとお茶飲み話して過ごした。
 嫁とはうまくいかなかった。息子は酒を呑まないし、自宅で宴会をしないし、よそに女もいない。恵まれ過ぎだ。不公平だ。理不尽だ。いつもうちに来る酒屋も豆腐屋も、私を素通りして嫁と話すようになった。冷蔵庫に入れておいた瓶の牛乳を孫に飲まれた。テレビを付けたままトイレにいって戻ってきたら孫に電源を切られていた。おばあちゃんは食う寝る遊ぶだねと孫に言われた。気に入らない。気に入らない。どんなに働いてきたか、どんなに酷い目にあったか、おまえら何も何も何も知らないだろう。メイはかつての己の姑のように荒んでいた。夫に養われ、3人の子どもを楽して育てる嫁が憎らしい。毎日のように通院の送迎をさせ、嫁が掃除した後を散らかして歩いた。この嫁は、自分にくらべたら全く苦労が足りていない。近所に出掛けても、娘の家に遊びに行っても、温泉旅行に行っても、会う人すべてに嫁の悪口を言った。嫁はおとなしい性格で、気が弱かった。心を尽くしてお世話をしても意地の悪いことばかりされ、近所や親戚から鬼嫁だと思われ、やがて、食事を作ったり掃除をしたりするのが困難になった。メイは、嫁が家事をしない様を、生き生きと周囲に触れ回った。嫁は精神のバランスを崩した。メイは小学生の孫たちから母親を奪って自分の嫁にした。気分のまま、虐めて壊した。

 この同居は15年ほど続いた。メイは夫が亡くなったあと、死を恐れた。早寝早起きを実行し、1日3食しっかり取り、毎日散歩や畑仕事をした。酒も煙草も暴食もしない。他人との同居ストレスは、必ず発散した。掃除してあれば散らかして、呑気な嫁のタンスを切りつけて、手編みのセーターにハサミを入れた。頻繁にバスツアーに出掛けて自分を労った。体調が良くないときは、生卵を飲んだ。頭痛には梅干しを潰して額に張った。眼科や整形外科などしっかり通院してメンテナンスを欠かさなかった。大きな病気もケガもしなかった。
 平成に入って数年後、それは初夏のある金曜日の夜だった。家にはメイと嫁、勤め始めた孫が居た。3人の女は食事以外は別の部屋で過ごしている。生放送の音楽番組のエンディングロールが流れていた。オープニングなら勢い良く裏拍から入るギターの旋律が、テンポを落としてゆったり聞こえる。メイは風呂の入り口に腰掛けて、風呂に湯が張られるのを待っていた。音楽番組を観ていた孫が、風呂を用意するつもりで茶の間の引き戸を開けた。暗く短い廊下の向こうにドアが開いたままの風呂場。蛇口が全開で湯船から湯が溢れている。また嫌がらせかとため息をつきながら、孫は入り口に腰掛けたメイを避けて風呂場に入り、蛇口を閉めた。振返って「起きて、お風呂できてるよ」と声をかけた。メイは応えなかった。閉じた目から涙が一粒、流れて落ちた。救急車は嫁が呼んだ。医師は心筋梗塞だと言った。不和の満ちた家で、至近距離に3人も居たのにメイはたった独りで死んだ。

 その数ヶ月前に、次男が亡くなっていた。起業家で会社を経営していたが、離婚して独り暮らしだった。糖尿病を抱え、脳腫瘍の手術もしていた。自宅で孤独死だった。数日後に一緒に働いていた末息子が発見した。メイは独りで亡くなってしまったこの息子と、たった19才だった娘を迎えに行くことにしたのか。メイの心臓は突然止まってしまった。後年、法事の時に他の娘たちはメイのことを褒め称えた。嫁に介護をさせることなく旅立ったと。自分たちもメイのようでありたいと。15年間、メイの抜き身の苦しみをぶちまけられながら、鬱の怠さをなだめすかして子育てしながら炊事洗濯掃除送迎をすることは、確かに介護ではない。嫁はこの娘らにメイを見た。近所の人に、メイが言いふらす通りの怠け者だとおもわれたくなくて、家の周りの草むしりを最優先にやりつづけた。メイがそうしたように、娘たちが嫁の服を盗み、傷つけていると思い込んだ。嫁はメイに壊されたままだ。娘たちはそれぞれ孫を迎え、自分らが婆だ。何年もメイの墓参りに来ない。仏壇に線香を上げにも来ない。墓を拭き仏壇に手を合わせるのは嫁だ。13回忌もとっくに済ませたが、メイは令和の今も嫁の中に生きている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?