メンタルサーファー

わたしは関東から宮崎に移住してきた。

宮崎に移住してくる人はけっこういる。サーファーが多い。
宮崎にはいい波が来るポイントがあるらしい。
木崎浜って言ったっけ。

わたしは海無し県で生まれ育った。サーフィンなんてしたことない。
海は茨城とか新潟に父が連れて行ってくれた。
夏休みに1~2回だけだった。海との接点。

しかも小学生だったから、浮き輪でぷかぷかしながら
迫りくる波を見つけて、弟と「わー来る来る!」とはしゃいで
波に乗ったり白波に飲まれたりして目が真っ赤になったりしてた。
あとは砂遊び。
それくらいだった。

だからサーフィンなんてしようとも思わなかったし
サーファー=黒くてチャラいみたいな偏見しかなかった。
どちらにせよご縁はなかった。


わたしが宮崎に移住してきたのは、結婚がきっかけ。

創作活動を通じて知り合った、後にわたしの夫になるその人には、
妻がいてこどもがいた。
mixiに曲を貼ってたらコメントをくれたのが彼だった。
それが知り合ったきっかけで、そこから音楽仲間になった。
ここではイツキと呼ぶことにする。

当時不名誉な5年目の大学生活を送っていたわたしは、
同い年のイツキが妻子持ちと知って「へー、頑張ってんね」
とか思ってた。
全然違う世界の人もいるんだなーって思ってた。

その頃のわたしは、自分の不治の病と闘っていた。
わたしの病気は、『双極性障害Ⅰ型』。
生涯にわたって服薬を必要とする。

「寛解」と言って、症状が落ち着く時期もあるが、
生活リズムの乱れやストレスなどの要因で、それは崩れ得る。

気分が高揚して散財しまくったり、性的に逸脱したり、
突然選挙に出てみたり、家を買ったり、とか。
躁状態のエピソードを人から聞いたりググったりすると
ものすごいことになってる。
本人は万能感があって勢いしかなくてそういうことを次から次へとする。
めっちゃハイな状態。これを『躁』状態という。

この躁の後には、エネルギー切れだ。『鬱』がやってくる。
鬱はけっこう知られてるからそんなに詳しくは書かないけれど
躁の逆みたくなる。エネルギーがどこにもない。起き上がれない。
何もしたくない。死にたい。死ぬ元気もない。
しかも躁のときの自分のやらかしを思い出して壮絶な後悔をして
それこそ本当に死んで詫びるわみたいな気分になる。

こういう気分の波を繰り返す障害、それが『双極性障害』だ。

イツキに出会った頃は22とかその辺。だいたい10年前。
当時わたしは生涯病人でいなくてはならないことが嫌だった。
地元にいるのも辛かった。

小学校からずっと優等生だった。成績優秀、品行方正。
第一志望の東京の私立大学に進学。

そこまではよかった。

わたしは大学在学中に、20歳の11月に、鬱になる。
それがわたしの優等生の道の終わりだった。崖から落ちた。

大学に行けなくなった。休学手続きは時期的にもう間に合わなかった。
けれども療養が必要だったので学校もバイトも無理言って投げて
実家に帰った。

どうにか3年生になって復帰はしたけれど、鬱は完全に治りきってなくて
講義の内容がちっとも頭に入らない。そもそも興味も持てない。

なんで法学部なんか入ったんだろう。

今思えば、それが「就職の時に融通がきくだろうから」っていう
けっこう楽に流されてる理由だったからだと思う。
そもそもわたしは大学に行ってまで学びたいことがなかった。
わたしが勉強を好んで死物狂いでやってたのは、
『親や先生に褒められるため』であったから。

それらしい言い訳を重ねに重ねて塗り固めた塔が
崩れた結果が鬱だったんだろう。

そしてその鬱の診断が覆される出来事が起きる。

『躁転』だった。

躁状態になってしまったのだ。
大学4年生だった。

当時同棲していた彼氏は研修で寮に入っていたから
わたしは広めのマンションでひとりで過ごしていた。

昼間から酒を飲んだり、テスト勉強している子に執拗に話しかけて
ちょっとやめてくれる?と言われたり、
一晩中原宿の街を闊歩して夜を明かして次の日も元気に大学に行き
喫煙所で楽しく煙草を吸ったりしてた。

なんで躁状態だと診断されたんだっけ。覚えてない。

でもクリニックで母と一緒に診察を受けて、
躁転しています、とか、入院が必要かもしれませんとか言われて
パニックになってクリニックから飛び出して
そのビルのエレベーターホールで泣きながら友達に死にたいって
電話したのは覚えてる。

そのときからわたしの病名は『双極性障害』になった。

一生治らない、一生薬漬け。

そんな自分の病気をわたしは呪った。

◆ 


最初の躁転の後の鬱は立ち上がれないほど酷くて
死ぬ元気もない状態だったし、抗鬱薬の副作用で
とても太ったから外に出るのも嫌だった。

動けるようになってきたら、
少しでもマシになれば、とスポーツジムに入会したり
少し元気なときは母と買い物に行ったりもした。

そこで同級生のお母さんに会う。
「あれ?杏子ちゃん?」
「こんにちは」
「しばらくね。今日はお休み?」
「ちょっと身体壊してて…」

引きつった笑顔でそう濁すのが精一杯だった。

地元にいると、「あの優秀な杏子ちゃん」の過去の栄光が
わたしを「この出来損ない」と責めるのだ。

優等生街道を順調に進んだら、こんな平日の昼間に
スーパーとかいないよな。
わたしは東京で仕事してたはずなのに。
鬱真っ最中だった、就活の時期が。だからしなかった。
鬱を言い訳にしたと言えば、そんな気もする。

「こんな病気にならなければ」と何度思ったかわからない。

ずっとそうやって、受け入れられないでいた。双極性障害という、病気。

数年かけて、ゆっくりわたしは回復していった。
日常のことができるようになって、次はバイトができるくらいになった。
無理が引き金になって鬱っぽくなり、どれも長くは続かなかったけれど。

一方、イツキは、この頃離婚し、こどもふたりの親権をとり、
シングルファザーとして日々闘っていた。

この頃だった。わたしの双極性障害に対するスタンスが変わり始めたのが。

「こいつを生涯の友達だと思ってみようかな」

と、ふと思いついたのだった。
ずっとわたしにくっついてるものなら、
仲良くしたほうがいいんじゃないかな、って。

その頃から徐々に気分安定薬の処方量は減っていった。
大叔母から、「杏子は顔の感じがよくなったな」と言われたと
母から教えてもらうこともあった。

そしてわたしは30手前で、転機を迎える。
すっかり双極性障害は寛解。飲んでる薬はエビリファイ3mgのみ。
最低処方量にもならないけれど、「お守り」みたいに飲んでいた。

突然だった。イツキから声がかかったのだ。

最初はTwitterで他愛もない話をやりとりしていたあと、
「いつでも嫁に来ていいのよw」ってイツキからリプライが来る。

へ?と思う。いやいや、何言ってんの。

そう思いつつも、ノる。「そしたらあたしも二児の母かぁw」

そんな冗談なんだかよくわからないノリの話をした後、言われた。

「今夜あけといて」

結果として、スカイプでイツキに告白されるのだ。
今日のTwitterのやりとりのことを話して、
あまりにも距離があるところや、こどもふたりがいること、
わたしに持病があることなんかを話して、お互い、
確認みたいな空気を持った後に。

「結婚を前提に、お付き合いしてください」

そして死ぬほど恋焦がれる飛行機レベルの遠恋を一年弱したあと、
2016年の1月、わたしは宮崎に移住した。
その年の12月に入籍し、わたしはイツキの妻になった。

2016年はじめの時点でエビリファイ3mgだった薬は、
環境の変化やいきなり二児の母親役になった戸惑いなどの
たくさんのストレスでどんどん増えた。
鬱っぽくなって寝込んでしまう日もあった。
それでもあくまで「寛解」の範囲で過ごせていた。

2018年の11月までは。

その11月、わたしはやけに元気だったらしい。
義母にも、「調子よさそうやね」と言われてたりして。

11月の末、わたしは地域の自治会で知り合って一緒に会計をした男性に
イツキの酒の飲み方なんかを愚痴ったりしていた。
その男性は飲まない人だったし、気さくでとても話しやすかった。

森本さんと呼ぼう。

森本さんはLINEで相談に乗ってくれたりした。
「ここへんはそういう文化ですからね、俺も好きじゃないですよ」
そして言った。「杏子さんとこはまだいいっすわ」
「うちなんかレスっすよ笑」
わたしは調子に乗って返した。
「えー!若いのに!それはつらいねぇ」
「杏子さんでよければいつでも使っていいよ笑」

森本さんとそういうやりとりをするうちに、12月になり、
わたしは道を踏み外す。

森本さんに誘われて、彼の所属するミニバレーのサークルにも参加し
夜遅くまで出かけていた。
帰宅は深夜。24時前後とか。
ミニバレーの練習時間は20時から22時なのにも関わらず、だ。

わたしは不倫していた。軽躁状態が後押しして、戻れないところまで
行ってしまった。完全に恋をしていて、引き返せなかった。

そしてイツキに対する態度はどんどん冷たくなったし、
荒っぽい喧嘩をたびたびするようになった。

2019年1月のはじめ。躁転していた。

遅いわたしの帰りを待って深酒してリビングのコタツで
寂しそうな目をしていたイツキに、わたしは声を荒げた。

「なんで起きちょっとや!?」

理不尽かどうかも、もうわたしには考えられなかった。
イツキもわたしが「いつもの杏子じゃない」と思い始めた頃だった。

わたしの両親と連絡を取って「杏子ちゃんの様子がおかしい」と
相談したイツキは、わたしの両親が「躁転しているかもしれない」と
言うのを聞いて本格的に動き始める。
イツキが『躁』について知り始めたのはその時だった。

わたしが行動をエスカレートさせている間、
イツキは仕事を抜けてはわたしのクリニックに通い、
妻の様子がおかしいんです、と主治医に相談していた。
わたしには何も言わずに。水面下で動いていた。
ネットで調べられることは調べ尽くし、論文も本も読んだと言っていた。

そして症状がある程度落ち着いているその日、
イツキとわたしはふたりでクリニックに行った。

そこでわたしは主治医から躁転していることを知らされる。

2月の下旬くらいだった。
そこからわたしはまた気分安定薬のお世話になる。

3月の末、森本側でわたしたちのLINEのやりとりがバレたことが
きっかけで、森本との関係は終わった。

森本は奥さんに、わたしとの身体の関係はなく、わたしが一方的に
好きになってそれで相手をしていたと誤魔化したので、
慰謝料請求は免れたのだけど。

その晩、イツキは怒った様子で地域の自治会の資料のページを荒っぽく
捲っていた。どうしてかなんてわかってたのに、わたしはわざと聞いた。
「どうしたの?」
「会計の連絡先」イツキが怒りを滲ませて言う。
「…教えようか」

それでイツキは森本本人に電話した。
怖くて、離れた寝室でわたしは思考ができないままただ座っていた。

電話が終わったかな、と思った頃イツキのところに行った。
わたしはもう嘘がつけないと思ったから。
ああ、離婚の話をしなくては。
そうふんわりと現実感があまりない頭でイツキに言った。

「…何かわたしに言うことある?」

我ながら最低だと思う。この期に及んでまだ逃げてる。

「話すことあるならそっちが言ったら?」イツキは言う。

わたしは言った。

「森本さんを好きになってしまった。」

「…。身体の関係は。」イツキは低く尋ねる。

「…ある」

「そう」

終わったな、と思った。
なのに、イツキは言った。

「これからどうしたい?」

イツキを酷く傷つけた。傷つけたじゃ済まないくらいの
酷いことをした。だってイツキは捺印までした離婚届を
実家に隠しておいたというのだから。

わたしは泣きながら言った。
「わたしに選ぶ権利も能力もない!正常な判断ができん
病気やっちゃから!もうどうしたらいいかわからん!
どうしてこんなんで生きちょらんといかんと…?」

ぐちゃぐちゃだった。もう森本に会えないとか、
大きすぎる過ちを犯した後悔とか、イツキへの申し訳無さ。
双極性障害と生きる難しさ。

イツキは厳しい口調でわたしに言った。

「杏子がそうなら、お前が何と言おうと俺は側に居るわ」


イツキは今も、わたしの隣でカラン、と氷の音をさせながら
お酒を飲んでいる。

イツキの前の離婚理由も、不貞行為、育児放棄だった。
前の奥さんの時は、不貞行為が分かった途端にどうでもよくなったと
聞いていたのに。
不思議に思って聞いた。

「わたしはどうしてどうでもよくならなかったの?」

「天狗かもしれんけど、この子は俺がおらんといかんと思ったとよね。
どうでもよくならなかった。…あんたのことが大好きやとよ」

最後の方は茶化すように言った。
けれど、その目の真剣さをわたしはよく覚えている。

それから症状が徐々に落ち着き、
今は月に一度くらいのペースで通院している。
そのたびにイツキは仕事を抜けて一緒に診察室に入って
彼から見たわたしについて主治医に伝えてくれる。

わたしの旦那さんは、あんたにしか務まらんわ。

いつかそんなこと言ったっけ。

わたしのパートナーは二人いる。
ふたりっていうとちょっと変か。

片手にはイツキ、もう片方には双極性障害。

どっちとも喧嘩する。
片方のせいで片方が困ったりするかもしれない。
どっちにも引っ張られてわたしが痛いかもしれない。

でも切ってもきっとこれは切れないんだろうと思うし
できればみんなで仲良くやりたいのが、
平和主義なわたしの願い。

ちなみに、イツキは今はやってないけど、
サーファーだった。
死にかけたこともあるって言ってた。
波に飲まれると、どっちが海面かわからなくなるのだそうだ。
もし海底側に間違って進めば、命取りだ。

わたしは、双極の、感情の波に乗る。
うまく乗りこなせたらいい。
失敗したら苦しくて必死に海面を探してもがく。
メンタルサーファーだ。

宮崎と、イツキ、双極性障害、わたし。

妙なご縁やな。

倍にして返すくらいの文章を書くよ!!!!!