社会を良くしようとする社会学者から社会を守ろう。
社会学や比較文学の連中が語る多様性コンサルなんてはっきり言えば必要ない。
事業を行うならば法務部でいいからだ。ではなぜ法務部ではダメなのだろう。
法学部の仕事は事業の事後にことにあたるからで、事前の予防に該当する法のチェックも、その法が現行法である。
彼らの言う未然とはむろん法ではなく、表現にたいする歴史文脈的な解釈の範疇にあるのだが、
彼らが信じているのは政治的な正しさへの介入であり、その介入を通して、法人の人間化を行うのであり、言ってよければなにも信じていないのだ。
そのような法に対置される共同体的な情はどうかと言えば、
多様性コンサルは人権屋にすら建前として存在していた共同体観念が欠落している側の人間でありながら、欠落している状態を探しているのであり、
つまるところ、共同体の不在性と手を組んでいるために普遍道徳が未完成であることを常に必要とするのである。
この法学的な事後と事前に対する、史学的な事前の隙間こそが、彼らが表現に対するクレームに対して前もってクレームをつける腕の見せ所なのであり、
つまるところ、民俗学的、社会学的、または文化人類学的な教養が職能化しているわけだが、
ようするに、文学では食えないという話でしかないのである。
鳥を探す鳥かごのように、対象から構造を抽出、類推し、自らも十分に主観的でありながら、感想そのものの存在を否定してみせることで、記事内で言及する度に客観性を再発明しているような、
ブロガータイプの批評家ばかり育ててもしょうがなくなったのだ。
あらかじめ深読み用に見出だされた阿部和重や、まだしも天然もので、映画の未来かのような余地があったゴダール映画のように、
ラップグループのDos Monosや、大田ステファニー歓人といった初めから用意されたものであることが見え透いている若者の表現を、雑誌や歌詞で書いてあるままに深読みし、
なんらかの知的到達点かのように激賞してみせる大学生などそう多くないし、いたとしても無害だ。
少なくとも自分が現代の都内の大学生なら、こういう大人の駒をやるわけね。ふうん。くらいの感想しか浮かんでこない。
これは、かつてならば、お座敷芸か教養的な茶飲み話に過ぎなかったローマ帝国の崩壊が、切実に語られるようになったことと無関係ではない。
先進国の経済は他国への外注で成り立っており、外注は既存の主幹産業を空洞化させるため、国家の利益は知財、金融、情報の類いでの稼ぎを収集するしかないからだ。
事実、多様性(ダイバーシティ)は持続可能性(サスティナビリティ)と同じく、マーケティング用語なのであり、この空洞化を埋める商売のために存在しているのである。
ゆえに、彼らは、人権屋のように、歴史に人情を与え、本質的なところで終わることのない、歴史の反省を他所に押しつける、
規制業者的な役回りを行う薄汚れた人間に過ぎず、社会のことなどどうでも良いのである。
ここまでは会社の話だが、社会はどうか。
表現の領域のみならず、社会は、分析屋に過ぎない社会学者の社会運動からも守られねばならないのだ。
社会学者と社会との距離は、語法による文脈から切り離された、叙述と文法の距離であると言えるからで、
社会学者の語る社会問題は、彼らが構造抽出や対象認識を行う過程において、見栄えのする文法を介した問題となり、
その結論のために、人間を精神活動や感情を抑制、または管理する、ような社会的な生物にしなければならないからだ。
なぜならば、社会問題の根本的な原因は、概念語によって語られる環境の方にあるからで、
概念語によって示すしかない歴史的な状況が生んだ環境の責任は、実際の人間の責任に押しつけるより他ないからだ。
要するに、人間の共同体が社会として存在し、社会を社会と呼んでいるうちは、評論可能なだけで人間にできることなどほとんどなく、
たとえば、観光地のゴミ箱や、都心のベンチを増やすことは、そのような評論的な理念とはなんら無関係なまま行えるのだ。