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海の青より、空の青 第53話

たからもの

「この春にやっと、ずっとそのままだったお姉ちゃんのお部屋をお母さんと一緒に片付けていて、手紙はその時に机の引き出しから出てきたものです」
 いつの間にかまた溢れ出していた涙で濡らしてしまわないよう、細心の注意を払いながら封筒の裏側を見る。
 猫のイラストのシールで封をされたその横に、丸くて可愛らしい字で小さく『夏生くんへ』と書かれており、中には二枚の便箋と一枚の写真が入っていた。
 深く呼吸をして覚悟を決めると、志帆ちゃんが遺してくれた想いに触れた。

夏生くんへ

ごめんなさい。
夏生くんと初めて会ったあの日にはもう、私はあの町からいなくなることが決まっていました。
でも私はあなたにそのことを言えませんでした。
それはきっと、もし話してしまったら笑顔であなたと会うことが出来なくなってしまうような、そんな気がしていたからだと思います。

風に飛んだ帽子を夏生くんがびしょぬれになって取ってくれた時、私はすぐにあなたのことを好きになっていました。
夏休みの小学校でデートをして、盆おどりを一緒におどって、山みたいなかき氷を一緒に食べて、それに灯台にも一緒に行きましたね。
私はその一日一日で…ううん、一秒ごとにあなたのことをどんどん好きになっていきました。
夕方の海であなたと別れたあと、私は家に帰ってからいっぱい泣きました。

でも、もう悲しくはありません。
家族にはナイショですが、今おこずかいを貯めてあなたに会いに行く計画を立てています。
来年の夏にはあの海でまた、あなたと一緒に灯台まで歩いて新しい思い出を作りたいです。
そして、高校を卒業するまでにはもっといっぱいお金を貯めて、あなたと同じ大学に通うのが私の夢です。
だから、それまでは絶対に彼女を作らないでください。
絶対に!

あなたと過ごした夏の日々は、私にとって一生の宝物です。
次に会った時には、あの時に言えなかった言葉を伝えたいです。

P.S.

ハマゴウの花言葉を知らないって言ったのはウソです。ごめんなさい。
でも、はずかしいのでここには書きません。
図書館に行く機会があったら調べてほしいです。

夏生くんのことが大好きな志帆より

 震える手で便箋を丁寧に折り畳んで封筒に仕舞うと、今度は一緒に入っていた写真を取り出す。
 そこには、紺碧の海を背景にして真顔でカメラに目を向ける俺と、直後に訪れる別れなど全く感じさせることのない笑顔で俺を見つめ、その白く細い指を優しく絡ませている彼女が写っていた。
「お姉ちゃんが夏生さんのお話をしてくれる時、いつもこんな顔で笑ってました」
 俺も美帆ちゃんも涙を拭うことすらせず、写真の中で幸せそうな笑みを浮かべている彼女のことをずっと見ていた。
 しばらくそうしたあとに顔を上げると、いつの間にか夏の夜空に一番星が瞬いていた。
 志帆ちゃんが行ってしまった遠い場所と比べれば、あの星など少し手を伸ばせば簡単に届いてしまうだろう。
「俺は……僕は君のお姉さんのことが、志帆ちゃんのことが本当に大好きだった」
「お姉ちゃんもです。夏生さんのおかげでお姉ちゃんは幸せでした」
 彼女はそう言うと、先ほどとは逆にその白く細い指で俺の頬の雫を拭ってくれた。

 紺青に支配された空の下、赤土の畑の間を真っ直ぐに伸びる道を彼女と並んで歩く。
 言葉も交わさずに歩むこの状況は、まるであの夏の日に彼女の姉とそうした時とよく似てはいたが、目指しているゴールはとても対照的なように思えた。
「夏生さんって、お姉ちゃんに聞いていたのと少しだけ違ってました」
 真横を歩いていた彼女が、ふいにそんなことを言い出す。
 発言の意図を問うために、ちょうど頭ひとつ分だけ低い位置に目を向ける。
 その場所にあった小さな顔が、あまりにも初恋の人のそれと瓜二つで、止まったばかりの涙がまた溢れてきてしまう。
 そのことを悟られないよう、わざとらしく咳払いをして空を見上げると、改めてその言葉の意味を彼女にたずねた。
「夏生さんはヘンな人だって。お姉ちゃん、そう言ってました」

『夏生くんって、ちょっと変わってる』

 確かに彼女に何度かそう言われたことがあった。
 しかし『変わってる』と『変な人』だと、後者の方が随分と印象が悪い気がしてならない。
「変な人じゃないよ。ちょっと変わってるってだけで」
 自分でそう言ってから、どちらにせよ『変な奴』であることに変わりないことに気づき肩を落とす。
「でも」
 いつの間にか半歩後ろを歩いていた彼女が呟いた。
「夏生さんはお姉ちゃんが好きだった人です。だからもしヘンな人だったとしても、それはきっと素敵なヘンな人なんだと思います」
 頬を赤らめながらそう言った彼女は、まるでスキップでもするかのような軽い足取りで俺の前に躍り出ると、長い黒髪を手で押さえながら勢いよく振り向く。
 そして、少しだけはにかんだような笑顔を見せながら、さらに言葉を続けた。
「夏生さんは私が想像していた通りで、とってもとっても素敵な人でした」

 そのあと俺と彼女は特段に言葉を交わすようなこともなく、ゆっくりでも急ぐでもない足取りで歩みを進めた。
 そうこうしているうちに景色はさみしげな耕作地のそれから、温かな人の営みの匂いのする小規模な集落へと変移していた。
 窓の奥に明かりを灯す家々が目に入ると、何だか久しぶりに人間の住む世界に戻ってきたような気分になる。
 それと同時に長かった少年の時代が今まさに終わってしまうような、そんな不確かな予感が胸をよぎった。
 だが不思議と、そのことを悲しむ気持ちは湧いてこない。

「あ、夏生さん。うち、もうすぐそこなので」
 こちらに向き直った彼女は、出会った時と同じように手を身体の前に揃えて丁寧にお辞儀をした。
「送ってくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ……本当にありがとう」
 俺は君のお姉さんと会えたおかげで、人を愛することの尊さを知ることができた。
 そして今日君と会えたことで、その愛が仮初でなかったことを知ることができた。
「いえ――あ、そうだった! 夏生さん、これ」
 彼女は握った右手をそっと差し出すと、手のひらを上に向けて広げた。
 そこには真夏の晴れ渡った空の青と同じ色の小さなシーグラスが乗っており、今日という日の残滓であるわずかな自然光を受け、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「これは?」
「さっき夏生さんのところに向かっている時に、波打ち際で見つけたんです」
 そういえば幼い頃、これと同じような色と大きさのシーグラスを誰かに貰ったことがあった気がする。
 ただ、その相手が誰だったのかは忘れてしまっていたし、宝物のようだったそれをどこにやってしまったかを思い出すこともできなかった。
「これ、もらってください」
「いいの?」
「はい! 私とお姉ちゃんからのプレゼントです!」
「……ありがとう」
 今度はもう、絶対に無くしたりしないよ。

 最後に数秒だけ互いに見つめ合い、まるで申し合わせていたかのように同時に頷く。
 彼女はそのまま何も言わずに背を向けると、まっすぐ西の方角へと向かって歩き出した。
 やがて幼い後ろ姿が夕闇に紛れて見えなくなる、その寸前。
 突如として振り返った彼女は口の横に両手を当てると、驚いてしまうほどの大きな声で、こう叫んだのだった。
「夏生さんにお願いがあります! これからもずっと、ず~っとヘンな人でいてくださいね!」


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