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海の青より、空の青 第52話
志帆
「それはお姉ちゃんからの手紙です」
俺は手にした封筒に目を落としたまま、彼女がいま何を言ったのかを理解しようとした。
『それはお姉ちゃんからの手紙です』
彼女は確かにそう言った。
お姉ちゃん?
なぜ彼女の姉が俺に手紙を?
手元から視線を上げて彼女の顔を見ると、ふたたびその柔らかそうな唇がゆっくりと動いて言葉の続きを発した。
それは俺が今しがた抱いた疑問に対する明確な回答だったのだが、それでも尚、彼女が一体何を言っているのかまったく理解できなかった。
「お姉ちゃんは……志帆は三年前に亡くなりました。私は志帆の妹で、美帆といいます」
「え」
彼女は何を言っているんだろう?
「あ」
もしかして――もしかして、この子が志帆ちゃんの妹だと?
「ああ」
だから彼女の容姿は、あの夏とまったく変わっ――。
「え?」
亡くなった?
「……」
亡くなったって?
「……」
誰が?
「……あ」
ああ。
ああ、俺は。
ああ、俺は、理解してしまった。
「……志帆ちゃんが」
その瞬間、フルスイングのバットで後頭部を殴られたかのような強い衝撃を受け、温かな砂の上に膝から崩れ落ちた。
そのまま両腕を地面につけると土下座でもするような格好になり、額を強く砂に擦りつける。
世界から音が消え。
息が出来ず。
声が出ず。
涙も出ない。
志帆ちゃんが。
……ああ。
鼻の先にある砂の上に、大きな雫がポタポタと落ちる。
それはみるみるうちに砂の色を白から黒へと変えていく。
やっと、涙が出てくれた。
「ああああ……あああああ!」
やっと、声が出てくれた。
あの夏の日に出会った少女は。
会ってすぐに惹かれ合った少女は。
夕暮れの砂浜で口づけを交わした少女は。
俺の大好きだった少女は、志帆ちゃんは。
彼女はこの世界から、永遠に失われてしまったのだ。
どのくらいの時間が経っただろう。
ようやく顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは、志帆ちゃんの妹――美帆ちゃんが肩を激しく上下させ、目から無限に溢れ続ける涙を両手の甲で懸命に拭っている姿だった。
よろよろと立ち上がって彼女に歩み寄り、その白い肩にそっと手を置く。
途端に彼女は膝から崩れ落ち、砂の上に突っ伏してしまう。
横に腰を降ろして背中を擦ると、彼女は俺の膝の上に顔を埋め、その小さな身体を大きく震わせ続けた。
彼女の涙を吸った俺のジーンズは、麦わら帽子を追いかけて海に落ちたあの夏の日のように、その青色をみるみるうちに深く濃くしていった。
しばらくのあとゆっくりと顔を上げた彼女の目は、まるでウサギのように真っ赤に充血してしまっており、涙の伝った頬には沢山の砂が張り付いていた。
白磁のような肌を傷付けぬよう細心の注意を払い、親指の腹でそっと砂の粒を落とす。
「……すいません」
乱れた髪を手櫛で整えた彼女は俺の横で膝を曲げると、その整った顔をおもむろに上げ、そして口を開いた。
「夏生さんのことはお姉ちゃんに、何度も何度も聞かされていたんです」
彼女は呟くようにそう言うと、水平線の彼方へと真っ直ぐに目を向けた。
その横顔は本当に姉の志帆ちゃんにそっくりで、またしても俺はあの日の夏に戻ったかのような錯覚を起こしそうになる。
「あの年の夏は私にとってもお姉ちゃんにとっても、すごく特別な夏でした」
当時小学三年生だった私は唐突に決まったお母さんの再婚と、それに伴った転校の予定に幼い胸を痛めていた。
お父さんが亡くなったことで心を弱らせていたお母さんに代わり、甲斐甲斐しく家事をしたり私の世話を焼いてくれていたお姉ちゃんも、どうやらそれは同じだったようだ。
家族の会話は日に日に減っていき、やがて家の中には常に冷たい空気が漂うようになっていた。
お盆初日の八月十三日の夕方。
自室で机に向かい、夏休みの宿題をしていた時だった。
何やら玄関の方からバタバタと大きな足音が聞こえてきた。
その大きな足音の主は、次の瞬間にはもう私の部屋の前までやってくると、そのままの勢いでドアをバタンと開けて入ってきた。
そこに居たのはお姉ちゃんだったのだが、その顔には久しく見ていなかった満面の笑みが湛えられていた。
「美帆ちゃん聞いて! お姉ちゃん今日ね、すっごい面白い人とお友達になったよ!」
息を弾ませて姉が語ったのは、風に飛ばされた帽子をびしょ濡れになりながら取ってくれた同い年の男の子の話だった。
その内容よりも、その時の出来事を楽しそうに語るお姉ちゃんの姿に、私の心は久しぶりに満たされた。
その日からお姉ちゃんは毎日のように出掛けていき、帰ってくる度に『彼』の話をしてくれた。
会ったこともない『彼』の話を聞くと、私も自然と笑顔になることが出来た。
引っ越しを翌日に控えたお盆の終わりの日も、いつものように出掛けていったお姉ちゃんが帰って来たことに気がついて、今日も『彼』の話を聞かせてもらおうと部屋のドアの前に立った。
ノックをしようとしたまさにその時、ドアの向こう側から泣き声が聞こえた。
驚いてしまった私は、足音を立てないように自分の部屋へと戻ると、夕食の時間になってお母さんに呼ばれるまで、部屋の隅でずっと気配を殺していた。
結局、その日お姉ちゃんは一度も部屋から出てこなかった。
引っ越し当日の朝。
昨日の昼までそうだったように、お姉ちゃんは笑顔で「おはよう」と言ってくれた。
しかしそれ以降、お姉ちゃんの口から『彼』の話を聞くことはなかった。
引っ越し先は全く知らない土地だった。
気候も方言も前に住んでいたところとはだいぶ違ったのだが、それでも友達はすぐに出来たし、やはりすぐにクラスに馴染むこともできた。
新しいお父さんもとても優しくて、何より嬉しかったのは、お母さんが前より笑顔をみせてくれる機会が多くなったことだった。
引っ越してから一年が過ぎた、ある日。
学校から戻り、部屋でランドセルの中から教科書やノートを取り出していた時だった。
隣のお姉ちゃんの部屋で大きな物音がした。
お姉ちゃんは朝から体調が悪く、今日は学校を休んでいたはずだった。
ノックをしてからドアを開けると、お姉ちゃんはベッドの上で膝を抱え込むようにして体を丸めていた。
苦痛に歪ませた顔は深い海のように真っ青で、私が部屋に入ってきたことにすら気付いていない様子だった。
すぐにお母さんの職場に電話を掛けると、お母さんが帰ってくるよりも早く到着した救急車でお姉ちゃんは病院へと運ばれていった。
そして、次の日の夜。
顔に白い布を掛けられ戻ってきたお姉ちゃんは、もう二度と話してくれることも、もう二度と笑顔を見せてくれることもなかった。
詳しい病名は教えてもらっていないが、急性の心臓の病気だということだけは、お通夜の席で大人たちが話しているのを聞いて知った。
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