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推し、燃ゆ/宇佐見りん 感想 

私を救う絶望の書

恐ろしい物語だった。まず筆力が圧倒的。土砂崩れのような、津波のような、人にはどうすることもできない災害級のパワーがある。欠点をかかえうまく生きられないものが、偶像を崇拝することでなんとか世間と折り合いを見つけようともがき苦しむ…これまでも何度も書かれてきた文学的モチーフをこんなに現代的に変換するとはすごすぎるじゃないか。
 
 
私も「推し」を持つものだ。それは救いと言ってもいい。そしてある種の生きづらさを抱えた人間でもある。
 
 
学生の頃、私はほぼ100%毎日忘れ物をした。半分は登校途中で忘れたことに気が付き走って取りに帰る。半分は学校で気が付き毎日新鮮な気持ちで愕然とする。笑い話のような「上靴のまま下校」「ランドセルを忘れて登校」も経験済みだし、夏休み中の登校日を勘違いして誰もいない学校で途方にくれたこともある。
 
 
幸運だったのは勉強はそこそこできたことだろう。忘れ物はするがテストは100点だからまあいいか。親も先生も世間も、今とは違って呑気な時代だった。環境や友人にも恵まれた。高校時代はほとんど毎日教科書を忘れ隣のクラスの友人に貸してもらっていたし、大学時代はテスト範囲も分からず立ち往生する私に親切に手を差しのべてくれる人がいた。留年もせずに4年で卒業できたことが我ながら信じられない。
 
 
大学を卒業してフリーターになったある日、自動販売機の釣銭入れに手を入れ小銭を探す老婆と出会い目がはなせなくなる。彼女は私だ。いつかきっとああなるだろう。それからずっと、そのビジョンは私を苦しめ続けた。
 
 
今、家族も友人も持ち、やりたいことを仕事にできていることは幸運でしかないだろう。
「もっともっと大変な人はいる。お前の辛さなど大したことではなかったのだ」
そう声が聞こえる。その通りなんだろう。
そうだとしても。
この小説の絶望は私を癒す。生きる術が「そこ」にある人々への救いの書。

今の私は家は普通に片付き、毎日仕事もし、無理なく子育てもしている。やりたいことを発信して叶えることもある。
どうして生きてこられたんだろう?
どうして私は変わらないのに、今、息がしやすいのだろう?
どうしてか考えることは誰かのためになるだろうか?

やっぱり運が良かったんだろうな。
でも私の変化を記すことは意味があるかもしれない。考えてみよう。

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