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#ネタバレ 映画「生きる」

ぜひ、現代の映画「生きる」とも言えそうな、TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活のレビューもご覧ください。

( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

1952年作品
映画「生きる」
民主主義実現のために戦死した兵隊さん(公務員)への鎮魂歌(詳細は追記22以降に)
2017/5/18 9:56 by さくらんぼ


泣く子もだまる一流大学を卒業し、誰でも知ってる大企業の幹部を務め、定年後は関連会社に再就職した事もある人が言っていました。「 もう一度人生をやり直せるとしたら公務員になりたい。公務員になって、自分たちが住む街をより良くしてみたい 」と。

今、公務員志望の若者はたくさんいますが、その志望動機は何でしょう。建前はともかく、本音は「安定しているから」が多いのではないでしょうか。その他は、せいぜい「住民サービス、福祉がしたい」ぐらいでしょう。そしてルーチンワークに明け暮れるのです。

それを悪いとは言いませんが、彼のように「自分たちが住む街をより良くしたい(建物だけでなく、制度も含め)」などと、政治家みたいな「志」を本心から掲げるのも素晴らしいと思います。

しかし …「安定を好む人たち」の集う役所内で、そんな旗を掲げて積極的に動き回ったら、安定に波風を立てることになるのでトラブル続出かもしれない。それでも努力し、満身創痍になって事業を成功させたとしても、昇進もなければ給料も上がらない。それどころか下手をすると「煙たい奴」として左遷されかねないのです。

つまり、それだけの志と能力がある人は、民間へ行くなり起業するなりした方が、徳だと考えてしまうのですね。

追記 ( NHK朝ドラ「ごちそうさん」 )

NHK朝ドラ「ごちそうさん」の西門悠太郎は都市計画で「まちづくり」の夢を見ていました。あれも参考になります。もちろん個人商店で、たとえばコーヒーの美味しい喫茶店を開く等も、そればかりか、ただ良き住民になることさえも、立派な「まちづくり」の一つですが、今回はそれにはあえて触れません。

追記Ⅱ ( 浮気とは違います ) 
2018/2/22 21:34 by さくらんぼ

自分の死が近いことを悟った市民課長の勘治は、(仕事がつまらぬからと、退職願に印をもらいに来た)部下の小田切とよに接近します。上司だから安心していても、鬱陶しくて、だんだん迷惑になる彼女。

とうとう「なぜ、つきまとうの?」と言った彼女に、「あの~、その~」と要領を得ない勘治。やがて勘治は自分の病気を伝え、「君が、あまりにも生き生きしているから、その理由を知りたいんだ!」と言います。勘治は最後の生きがい探しをしていたのです。

でも、言外の事も言えば、「老・病・死」の勘治にとって、「若く、健康であり、生命力にあふれた」小田切とよの側にいる事は、癒されるようで心地よかったのです。これは浮気とは違います。以前私も「父が亡くなった時、喪中でも、TVで静かにAKBなどを観ていた。静かな曲は耐えられなかったから」と書いた事があります。

さらに、同じ公務員(それも同じ職場)であることも理由でしょう。気心が通いやすいのです。

追記Ⅲ ( 女(女神)を称える物語 ) 
2018/2/22 21:41 by さくらんぼ

映画「生きる」は、一般には「死期の迫った男の市民課長が改心する物語」だと思われていますが、もしかしたら、恋するように民間へ行った「女(女神)を称える物語」だったのかもしれません。

勘治の改心劇とは、実は小田切とよの存在価値を説明するために、配置されていたのかもしれないのです。さらには公園の陳情に来たのも女性たちでしたね。どなたかの言葉に、「師を見るな、師が見ているものを見よ」と言うのがありますが、この映画の場合も、それが当てはまると思います。

追記Ⅳ ( 「カワイイ文化」など ) 
2018/2/23 9:42 by さくらんぼ

>映画「生きる」は、一般には「死期の迫った男の市民課長が改心する物語」だと思われていますが、もしかしたら、恋するように民間へ行った「女(女神)を称える物語」だったのかもしれません。

ですから(いのち短し 恋せよ乙女)名曲「ゴンドラの唄」も、勘治が自分を慰める歌と言うよりは、女神を称える歌だったのです。もちろん若い女性と言えば「恋愛」と来ますが、恋愛するようにエネルギーを爆発させる、たとえば「カワイイ文化」など、他の事も含みます。それらは周囲に影響(エネルギー)を与える注目すべきことなのです。だからAKBなどのアイドル文化も軽く見てはいけません。

追記Ⅴ ( 幸運の女神 ) 
2018/2/23 9:44 by さくらんぼ

そして「幸運(チャンス)の女神には前髪しかない」とか申します。だから勘治は必死につかんで教えを乞うたのです。しかし手を離したとたん彼女は退職してしまい、以後、お葬式にも来ませんでした。文字通りチャンスは通りすぎるものだからです。映画「生きる」へのオマージュである映画「スリー・ビルボード」でも、小田切とよ役になる少女は、すでに亡くなっていて、映画の中盤、女神は小鹿に姿を変え、哀しむ母の前に一瞬登場するだけでした。

追記Ⅵ ( 女神を描いた作品 ) 
2018/2/23 10:08 by さくらんぼ

女神を描いた作品には、映画「初恋のきた道」や、映画「ロッキー」とか、「君の名は。」、TVではNHKの土曜時代ドラマ「アシガール」などもそうかもしれません。

追記Ⅶ ( 女神ではない人 ) 
2018/2/25 22:03 by さくらんぼ

>もちろん若い女性と言えば「恋愛」と来ますが、恋愛するようにエネルギーを爆発させる、たとえば「カワイイ文化」など、他の事も含みます。それらは周囲に影響(エネルギー)を与える注目すべきことなのです。だからAKBなどのアイドル文化も軽く見てはいけません。(追記Ⅳより)

言うまでも無いことだとは思いますが、念のため申し添えます。

女性が全員女神なのではありません。たとえば映画「生きる」の中に出てくる、勘治の息子の嫁。彼女は夫をそそのかし、勘治の退職金で家を買い、勘治と別居しようと企んでいました。彼女は女神ではないでしょう。若くても美人でも、女神でない人はいっぱいいるのです。

追記Ⅷ ( 表裏一体 ) 
2018/2/26 9:48 by さくらんぼ

この映画「生きる」には3タイプの女性が出てきます。

①公園の陳情に来た女性たち、②小田切とよ、③勘治の息子の嫁です。

①は「公園」という記号が示す通り、公共の利益を満たす中で、自分たちの欲望の充足をめざしています。

②は自己犠牲(退職)で欲望に突進しています。

③他人(勘治)の犠牲の上に、自分たちの欲望を構築しようと思っています。

一般に「欲望の追求について素直」なのが女性の特質なのかもしれません。それが今回、迷える男性をリードする、内面的な「女神性」として描かれていました。しかし③には問題がありましたね。つまり女神性というものは、欠点と表裏一体でもあったのです。

もちろん男性側に問題が無いとは言いません。映画の後半にあるお葬式のシーンからは、男性たちの醜態が、これでもかと描かれていました。

追記Ⅸ ( 昨今の役所事情 ) 
2018/2/26 10:15 by さくらんぼ

小田切とよは、役所を辞めた後、町工場みたいなところで、ウサギの人形を作っており、しつこく、そこへ訪ねていった勘治に、「忙しいから、話なんかしている暇はないわ。ここは『一時間で出来る仕事を、一日かかってやってる』ような役所とは違うのよ」と言いました。

映画に描かれているような、半世紀以上も前の役所なら知りませんが、予算削減や電算化に伴う人員削減もある昨今の役所には、そんな暇は有りません。電算化は、したらしたで、膨大な数の電算リストが打ちだされ、人間の目で、次の入力日までに点検しなければなりません。

さらに、市町村役場と言うものは、誤解を承知で言うならば、いわば「世の中の庶務担当者(なんでも屋)」です。世の中の複雑化、住民の権利意識の高まりとともに、行政サービスへ期待値も上がっています。また、高齢化や生活保護対策など、さらには3.11以降、災害時の役所の役割も、一段と重要視されております。

追記Ⅹ ( 公務員の本懐 ) 
2018/2/26 10:43 by さくらんぼ

>②は自己犠牲(退職)で欲望に突進しています。(追記Ⅷより)

小田切とよは役所を辞めました(依願)。

勘治は死亡退職(胃がん)しました。

もし勘治が胃がんではなく、健康であったとしても、役所の中であれだけ騒動を起こし、敵もたくさん作ってしまったら、以後の出世も難しくなるかもしれません。それどころか居づらくなるかも。それは、あのお葬式での、役人たちの会話で分かりますし、映画の終わり、役所内での「何も改革できない日常」風景でも。そういう意味でも、勘治が死亡退職するストーリーが必要だったのかもしれません。

追記11 ( 組織の秩序 ) 
2018/4/1 10:12 by さくらんぼ

>もし勘治が胃がんではなく、健康であったとしても、役所の中であれだけ騒動を起こし、敵もたくさん作ってしまったら、以後の出世も難しくなるかもしれません。それどころか居づらくなるかも。

>それは、あのお葬式での、役人たちの会話で分かりますし、映画の終わり、役所内での「何も改革できない日常」風景でも。

>そういう意味でも、勘治が死亡退職するストーリーが必要だったのかもしれません。(追記Ⅹより)

なにか素晴らしいアイディアが浮かんでも、プレゼンなどで、周囲に同意してもらえなければ、組織では動けません。あまりに斬新な企画はつぶされてしまうのです。それどころか、そんな企画ばかり声高に出している社員は、変人か、無能あつかいされて、左遷されかねません。公務員であれ、民間人であれ、何かの組織に属するとは、その組織の為に働くことであり、必ずしも自分のためではないからですね。だから「とんがった才能のある人」が、自分を認めてくれる会社に転職したり、起業したり、するのは、当然の事かもしれません。

追記12 ( TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」 ) 
2020/12/19 10:23 by さくらんぼ

いろいろ書きましたが、映画「生きる」(1952年)は、公務員の安定にあぐらをかいていた市役所の市民課長のお話でもあります。(当時は不治の病と言われていた)ガンになったのをきっかけに、住民から出ていた「公園が欲しい」という要望に全力で取り組むことを通し、あらためて「生きるとは何か」を問い直す作品でした。

1952年当時の公務員の実態を私は知りませんが、これが黒澤監督の公務員観でもあったのでしょう。公務員バッシングのせいか、昨今でも同様のイメージを持っておられる人も少なくないと思います。しかし、古典と言っても良い素晴らしい作品ですが、古典であるがゆえに、現代の公務員象をあの映画から想像することは難しいです。

そんな中、新たなスタンダードと言っても良い作品が、TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」(ケンカツ)です。

TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」(ケンカツ)は、大学で映画監督になることを諦めたヒロインが、人生の夢を捨て、ただ安定だけを求めて区役所へ就職し、ケースワーカーの担当にされてしまうというお話です。ヒロインは戸惑いますが、自分と同じように、いや、それ以上に「生きる」事につまずいた人たちを無我夢中で支える仕事するなかで、ヒロイン自身も「生きるとは何か」を学んでいくのです。

こうして二つの作品を並べてみると、住民と関わりながら、「安定」と「生きる意味」を問うていました。そういう意味でも、オマージュかどうかはともかく、TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活」(ケンカツ)は、現代の映画「生きる」であるとも言えると思います。

(ケンカツ)は現代の区役所に自分が就職したような気分にさせる自然な描写で、内容も濃く、映画「生きる」の前に出しても恥ずかしくないクオリティーだと思います(もちろんドラマにするためのデフォルメや省略などはあるでしょうが、それは映画「生きる」とて同じでしょう)。

ぜひ、TVドラマ「健康で文化的な最低限度の生活のレビューもご覧ください。原作まんがが人気であることも申し添えます。

追記22 2023.9.30 ( 軍国主義から民主主義へ、そして兵隊さん(公務員)への鎮魂歌 )


「8月の平和論」の危険性

この方のご意見は、概ね昨今の私の気持ちと同じです。先日、終戦記念日特集で、NHK・TVが若者の意見を放送していました。全部を見たわけではありませんが、「自衛のための戦争も否定する絶対的な戦争反対論」を唱える方もいらしたようです。

実は、私も若い頃、フォークの反戦ソングの影響もあってか、その若者と似たような考えを持っていました。しかし、歳をとり、さらにウクライナの様子も見聞きするにつれ、シンプルな「戦争反対」というシュプレヒコールを聞くと、引っ掛かりを感じるようになったのです。

(追記22の1)黒澤監督の映画「生きる」では、普通に業務をしているだけの市民課長に、「彼は生きてはいない」との(失礼な)ナレーションが被ります。この映画の生まれた時代背景を考えると、どうやら、役所の先例主義を批判しているようです。日本は戦後の焼け野原からスタートした直後であり、建物もインフラも民主主義も突貫工事中だったわけです。そんな中、現状維持になりやすい役所の先例主義は、時代にマッチしなかった。それを黒澤監督は非難したのだと思います。部下の女性が人形工場に就職して生きがいを見つけたのも、公園を作るのも、同じ、作るというモチーフなのでしょう。

又、先の大戦は、日本の侵略戦争だという声が世界の大勢のようです。だから、日本人が戦争反対を叫ぶとき、それは侵略戦争反対であったと想像できます。あの当時、日本に攻めて来る仮想敵国の心配をする人は少なかったと思います。だから自衛戦争は、当時の戦争反対論の想定外だったのでしょう。

しかし、時代は変わり、日本に民主主義は定着し、侵略戦争などとてもできない国になりました。逆に、日本の周囲には、日本に攻めてくる心配のある国が3か国も生まれました。今日本が戦うとしたら、それは侵略者に対する自衛のための戦いでしょう。そんな現代には、日本が加害者だった時代の論理はマッチしないように思います。

(追記22の1.5)自衛のための戦争も反対する人たちは、例えば、「あなたが尖閣諸島に住んでいると、某国が侵略してきて島が占領された場合」、自衛隊による救出を望むのでしょうか。それとも戦争にならないよう、周辺からの自衛隊の即時撤収を求めるのでしょうか。

(追記22の1.6)「8月の平和論」では戦争の悲惨さが語られます。戦争の悲惨は嘘ではなく、語り継がれるべきものだと思います。その上で申し上げれば、戦争は悲惨だからという理由での絶対的な戦争反対論は、ゼロリスク信仰を連想するのです。マイナカードでも、制度が完成した時のメリットではなく、ミスが必要以上に話題になるのは、ゼロリスク信仰を連想します。

(追記22の1.7)先の大戦で、日本は軍国主義から民主主義国へと大変身しました。しかし、もし日本が戦争に負けなければ、勝っていたら、日本は現在も軍国主義のままだったかもしれません。現在の日本人が民主主義を歓迎するならば、先の大戦は、見方によっては、日本が軍国主義から解放されるための戦いだったとも言えるのではないでしょうか。

(追記22の2)あらためて思うと、あの当時の役所(1952年公開作品)は、本当に糾弾されるほど暇だったのでしょうか。終戦は1945年なのです。東日本大震災の復旧・復興では、役所は大忙しで、遠方の役所からも応援を頼まないと手が回らないほどでした。もちろん民間も大変でしょうが、役所が仕切らないとできない事も沢山あったはずです。

市民課なら、死亡届や、映画「砂の器」でも描かれていた戸籍再製の事務、焼け出された人の新住所登録もあるでしょう。通常業務だけでは済まないのです。どの係にいても、自分の仕事だけやっているわけにはいかないはず。ちょうど、昨今の選挙事務や、避難所運営などのように、全員体制で臨んだと想像します。仮に、もし暇であったとしても、それは、怒涛のような戦後の事務に一区切りがつき、ホッとして、抜け殻のようになっていた時期だったのかもしれません。

(追記22の3)戸籍や住民票は、すべての役所の公文書の大元になるものです(一部民間も利用している)。ですから、戸籍や住民票が整備されないと、その他大勢の役所は、仕事の計画段階から支障をきたすことになりかねません。その意味でも、終戦直後から、国は市民課の尻を叩いて仕事を急がせたと想像します。(急がせたと言えば)現代に例えれば、新型コロナや、マイナカードの事務が連想できます。

(追記22の4)昔は戸籍しかありませんでした。しかし、終戦直後から住民票が生まれました。今は、マイナカードで口座情報や、役所の各種情報の一元化を進めています。役所が仕事をするときには住民の情報が欠かせません。例えば市区町村役場を作るのにも、人口によって職員数が上下し、職員数が違えば、建物の大きさも違って来るはず。

役所が(全体の奉仕者として)公平な仕事をするためには、住民の様々な情報が必要になります。しかし、住民側は役所への情報提供を好みません。それは、つまるところ、情報をコントロールして、役所を自分に有利に誘導したい(一部の奉仕者を求める)、という気持ちの表れではないでしょうか。国よりも信用度が高いとは思われない民間のローンなどには、平気で口座情報を教えるのに、又、同じ国でも年金受給時には教えるのに、マイナカードには教えたくないというのも、それなら辻褄があいそうです。

(追記22の5)ここまで書いてきて、ふと思ったのですが・・・映画「生きる」は、軍国主義(官のおしつけ)から民主主義(民からの要望)への移行を描いていたのではないでしょうか。つまり、民主主義という時代の空気を、子どものための公園建設で描いたのです。市民課長は公務員の代表、つまり、民主主義実現のために戦死した兵隊さん(公務員)の記号だったのかもしれません。このドラマは、そんな兵隊さんへの鎮魂歌だったのでしょうか。

(2023.8.18のパレット記事の加筆再掲)


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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