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#ネタバレ 映画「幸せへのまわり道」

「幸せへのまわり道」
2019年作品
「聖職者」と「父」と「和解」
2020/9/8 14:31 by さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

チラシに「”トム・ハンクスは、誰もが知る、あのMr.ロジャースになり切った”」とあります。

アメリカ人にはそうなのでしょうが、少なくとも私は全く知らなかったので、その点ですでにバイアス値が違うのだと思います。

ですからアメリカ人が観たら★一つぐらいは増えるのでしょう。

それはともかく、少なくとも表面的には温かい作品でありました。実話をもとにしたストーリーらしいので、そういう価値もありそうです。

★★★★

追記 ( 「神の沈黙」 ) 
2020/9/8 14:41 by さくらんぼ

信者が聖職者に人生相談すれば答えてもらえるでしょう。

では、聖職者が神(父)に人生相談したら答えてくれるのでしょうか。

きっと答えてくれるのだと思います。

でも、答えてくれなかったとしたらどうでしょう。

もし、自分が最上位の聖職者だとしたら、人生の闇は一段と深くなるように思います。

追記Ⅱ ( 「聖職者」と「父」と「和解」 ) 
2020/9/8 14:55 by さくらんぼ

「 雑誌記者のロイド・ボーゲルは、家庭を顧みなかった父を憎み絶縁していた。ある日、ロイドは人気司会者フレッド・ロジャースの記事を書くため、取材で彼を尋ねる。フレッドはひと目見ただけでロイドの葛藤や問題を見抜き、その日からふたりは交流を深めていく。 」

( ぴあ映画生活『幸せへのまわり道』あらすじ より )

フレッド・ロジャースが一目でロイドの苦しみを見抜いたのは、自分も神(父)との間で、(誰にも語れない)同じ苦しみを持っていたからではないでしょうか。

それもあって、ロイドの苦しみに引き寄せられ、それを解決することで、自身の苦しみも解決したかったのでしょう。

追記Ⅲ ( 「聖職者」と「父」と「和解」② ) 
2020/9/8 15:03 by さくらんぼ

>それもあって、ロイドの苦しみに引き寄せられ、それを解決することで、自身の苦しみも解決したかったのでしょう。(追記Ⅱより)

その甲斐あって、ロイドの苦しみは解決しました。

ではフレッド・ロジャースの苦しみは解決したでしょうか。

映画のラスト、TV収録が終わった瞬間から急に孤独の影を宿すフレッド・ロジャースが、一人、スタジオの隅にあるピアノにすわり、「ガ~ン!!!」と怒りを解消するために鍵盤を叩く姿がありました。

追記Ⅳ ( 映画「ビッグ・ウェンズデー」 ) 
2020/9/8 15:13 by さくらんぼ

>映画のラスト、TV収録が終わった瞬間から急に孤独の影を宿すフレッド・ロジャースが、一人、スタジオの隅にあるピアノにすわり、「ガ~ン!!!」と怒りを解消するために鍵盤を叩く姿がありました。(追記Ⅲより)

それでも人は強く優しく生きなければならないのでしょう。

ふと、映画「ビッグ・ウェンズデー」を思い出しました。

下記にネタバレの映画「ビッグ・ウェンズデー」レビューを転記します。

『 いろいろなシーンが胸に残っています。

その中でも、青春の中、大人の生き様を考えさせられたシーンが、今、中年になっても、重く思いだされます。

それは、性格の弱い、主人公のMatt(ジャン・マイケル・ヴィンセント)が、酒浸りで、ホームレスの様な生活を送っていたときの話です。

そんな自堕落な彼でも、サーファーの先輩であり、サーフショップの店主でもあるBear(サム・メルヴィル)は、包容力のある父親のように優しい友人でいてくれました。

ある日、酒に酔い、千鳥足で、サーフショップに入ってきたMattをBearは歓待しました。ちょうどそのとき、店の外には、サーファーとしてのマットを尊敬する子供たちが数人集まり、中をのぞきだしました。

それに気づいたBearはMattに「大人になることは辛い。でも見なさい、彼らは君のことを尊敬しているんだ(彼らの夢をこわしてはいけない)」。正確では無いかもしれませんが、概ね、そんなセリフを、温かく語るのです。

あの言葉は私にも刺さりました。

あの時の私はMattの立場に、そして今はBearの立場に近いのですが、今の私にはBearの様な大人のセリフが吐けるでしょうか。それを思うと恥ずかしくなります。

大人は、子供から尊敬される存在を目指さすのが理想なのです。

この映画「ビッグ・ウェンズデー」の主題はここにありそうですね。

波は人生の試練の記号、サーフボードの上で美しく立つことは、試練に負けないで、すくっと立ち上がり、美しく振る舞うことの記号でしょう。 』

( 映画「ビッグ・ウェンズデー」2015/9/11 21:46 by さくらんぼ 抜粋 )

追記Ⅴ ( 「神の沈黙」② ) 
2020/9/9 6:10 by さくらんぼ

『 なぜ「神」はコロナ禍で沈黙するのか 』

( 2020年06月01日 ウィーン発 『コンフィデンシャル』 )

追記Ⅵ ( 晴れのち曇り ) 
2020/9/9 6:42 by さくらんぼ

映画が始まるとすぐフレッド・ロジャースが登場し、歌いだします。何も知らない私は「ミュージカル?」と思いましたが、これは子供向けのTV番組を再現していたのです。

「私と友だちになりませんか?」と笑顔で歌う彼を観ているのは、魔法にかけられたみたいに至福の時間でもありました。

私がイメージとして持っていたのは彼のような聖職者です。

でも、ご縁があった聖職者の方は、(失礼ながら正直に言えば)どちらかといえば寅さんに出てくる気難しい「おいちゃん」みたいな人だったのです。

そんな私ですから、フレッド・ロジャースを観て「こうでなくっちゃ」と安心しました。

しかし同時に、その「人間離れした(聖)ぶり」に、(聖)ではない私は生理的な嫌悪感を感じたのか、仮面の痛々しさを感じたのか、だんだんと胸が苦しくなってきたのです。

追記Ⅶ ( 映画「ミリオンダラー・ベイビー」 ) 
2020/9/9 8:04 by さくらんぼ

のネタバレに触れています。

『  >監督がスクラップに込めた意味とは一体なんだったのでしょうか。

>私は「精霊」だったのではないかと思います。主なき世界に降臨した精霊です。そして彼は逃げた神父の代理を勤めました。

>そうするとスクラップが靴を脱いでいたエピソードが理解できます。精霊には本来靴など要りません。また高価でも香りの良い洗剤にこだわった訳が理解できる様な気がします。あれは香油を暗示していたのかもしれません。

>精霊が神の意思で動くとしたら、精霊に導かれたフランキーのした行為は、神の前で正しい事となります。この映画は不幸な物語であるとの体裁をとっていますが、意外とそうでは無かったのかもしれませんね。

映画の記号において、甘味が好物だったり、裸足の人間が出てくるときには、往々にして「天使」の意味が持たせてあることがあります。

私はキリスト教の専門家でもありませんので、専門用語の使い方が正確ではないこともありますが、意図した解釈は「神の使いが降臨して来た」という事です。

「ミリオンダラー・ベイビー」では神父は役立たない存在として描かれています。つまり、神は存在するかもしれないが、地上を適切に取り仕切る「主(あるじ)が不在」なのです。だから、それをフォローするために緊急避難的に天使が降臨したのです。スクラップ本人が天使かどうかはともかく、彼には天使の力が働いていた。そして主(あるじ)の代役をしてフランキーを導いた。

キリスト教において自殺は禁じられているようです。でも、天使の導きで逝ったのなら、それは神の御意思であり、人間が勝手に行う、罪にあたる自殺ではありません。マギーは神から祝福されて召されたのです。

想い出すのは映画「汚れなき悪戯」です。教会の屋根裏の物置に、誇りまみれにされ、放置されていたキリスト像とは何を意味していたのでしょう。なぜ神父さんたちまでが驚愕する必要があるのでしょう。なぜ健康な子どもが、あの様なラストを迎えたのでしょう。

別の映画のスレッドでも書きましたが、終末期医療の進んだ現在、その医療をどの段階まで受け入れるのか否か、患者や、家族は、病院で苦悩の選択を迫られることがあります。その時にうろたえない為にも「ミリオンダラー・ベイビー」を観ておくことは有意義なことだと思いました。

クリントの「主(あるじ)の不在」的思想は、彼の最新作・映画「ヒアアフター」にも流れていて、苦悩の霊能力者も、少年も、もう教会の門さえ叩かないし、それどころか苦悩する人たち自身が、他人を癒やす仕事をする主(あるじ)となる姿が描かれていました。

そして、これは今に始まったことではありません。記念すべき映画「ダーティーハリー」からしてそうでした。主(あるじ)になるべき司法も行政もあてにならないと、下級の刑事であるハリー自身が神から権限を与えられたかのごとく44マグナムを振り回して成敗にのりだすのです。あの頃から基本的な思想は変わっていないのでした。

映画「ダーティーハリー」の延長線上にある映画「ミリオンダラー・ベイビー」。この映画は、ある意味、彼の究極的な思想も示されており傑作だと思います。 』

〈 追記Ⅵ ( 神に祝福されたマギー ) 2011/3/4 11:22 by さくらんぼ より抜粋転記 〉

追記Ⅷ ( 「児童番組」が登場する理由 ) 
2020/9/9 8:36 by さくらんぼ

サンタさんが本当にいてもいなくても、子どもたちの前では、サンタさんはいなくてはなりません。

子どもたちの前では聖なるものは存在しなくてはならないのです。

この映画「幸せへのまわり道」に聖職者と児童番組が登場するのは、そのような理由だった可能性があります。

そして、映画のラストにはスタジオで収録を終える様子が描かれています。

真実が姿を見せるのです。

追記Ⅸ ( ロジャースの誤算 ) 
2020/9/9 16:01 by さくらんぼ

>フレッド・ロジャースが一目でロイドの苦しみを見抜いたのは、自分も神(父)との間で、(誰にも語れない)同じ苦しみを持っていたからではないでしょうか。

>それもあって、ロイドの苦しみに引き寄せられ、それを解決することで、自身の苦しみも解決したかったのでしょう。(追記Ⅱより)

しかし、ロイドは解決しても、自身の苦しみは解決しなかった。これがフレッド・ロジャースの怒りだと思いました。

でも、少し別の角度から見てみます。

ロイドはフレッド・ロジャースの取材にやってきたのです。児童番組で聖を演じている彼の本当の顔を、雑誌に書いて大人に知らせるために。

本当の顔を知らせるという事で、自分の胸の奥にある苦しみまで見つけてくれるのではないのかと、それを公にすることで自分は解放されるのではないのかと、フレッド・ロジャースは(苦し紛れに)そう期待していた可能性もあります。

しかし、取材が終わってみると、胸の奥の苦しみを解放されたのはロイドの方であり、それによってロイドはフレッド・ロジャースは正真正銘の聖人だと思い込んでしまったのです。そしてそれは記事になり万人の知るところとなってしまいました。

だから、番組の収録が終わった直後、番組としては「OK!」と言いましたが、作戦としては「こんなはずじゃなかった」と怒りを爆発させたのかもしれません。


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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