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あまのと うましね

 違うの、そうじゃなくて、指は離さないで、うん、そう、そうそう、もっとゆっくり、ううん、そうそう、あ、そう、擦るんじゃなくて、うん、押す感じ、あ、そう、うん…。オレの手首に自分の手を添えたまま、そう言って紗希は気持ちよさそうに目を瞑った。そのまま、ねぇ、そのまま続けて、あ、うっ、うん…。オレが指の動きを弱めたり止めようとしたりすると、オレの手首を掴む紗希の指先に力が入る。紗希のお腹のなだらかな丘を下着の中へと下ったところにオレの指が触れている。ショーツの中は紗希の体温でじっとりと湿っていて、なかから分泌される液体が溢れ出てオレの指先に絡む。散々注文をつけられ、ただただそれに従って紗希のことを指先で刺激し続ける。大切なのは、重ね続けることであって、いつかの紗希の言葉を借りるならば、女の快感は足し算、ということらしい。強さとか速さとかではなくて、小さな技でポイントを稼ぎ続けるみたいにして快感を積み上げて、それが快感の器から溢れた時が絶頂、という仕組みになっているらしい。男のそれとは、随分と勝手が違うのだなとそれを聞いて思ったものだった。我慢できなくなった紗希に乞われて、オレはなかに指を入れた。紗希のなかは、ひんやりと冷たかった。ぬめりのある水分がオレの指先を覆う。窓のすぐ外に高速道路が見える部屋で、そのおかげで相場よりも家賃が安かった。それは紗希とその部屋で暮らし始めてちょうど一週間が経った頃だった。窓の外の夜を通り過ぎる車のライトが時々チラチラと視界に入る。その日、紗希は二回、絶頂に達した。オレが終わったあとも、オレが紗希のなかに入ったまま、しばらくそのままお互いを抱きしめあっていた。カーテンの無い窓から差し込む夜の明かりが紗希の肩を照らしている。ねぇ、垂れて来ちゃったよ。紗希そう言って、おれは紗希と自分をティッシュで拭いて、コンドームの後始末をした。そのあと、ちょうど眠りに落ちる頃に交通量がピークを迎えて、トラックやバスが高速道路の高架を揺らす振動が部屋の窓をカタカタと小さく鳴らした。次の日の夕方、本当に些細なことでオレと紗希は喧嘩した。部屋に時計を買いたいと紗希が突然言い出して、紗希の前の部屋から持ってきたいまあるやつで充分だと主張するオレと、どうしても新しいやつが欲しいという紗希とで、まずは意見が食い違ったが、結局オレが折れて、ふたりで駅の近くの雑貨屋に時計を見に行った。そこで紗希が欲しがった時計は一万円近くするセミ・ビンテージのもので、そもそも値段が高すぎるし、文字盤も見にくいし、オレは反対した。当時は二人とも、収入が潤沢なわけでは全くなかったので、その先の暮らしのことを考えると、一万円の非実用的な時計の購入、というのにオレは反対せざるを得なかった。説得を重ねたことと、紗希の腕を取って半ば強引にその雑貨屋を出たことで、なんとか時計の購入は回避できたが、その代わりに、家までの道を紗希のほとんど一方的な罵倒にオレは耐え続けなければならなかった。家に着いても紗希は気分が収まらなかったらしく、一人になりたい、今日は一緒に寝たくない、というようなことを言い出した。そのまま紗希に何処かに出かけられても困るので、そうなるとオレが出かけるしかなかった。わかった、ごめん。そう言ってオレは自分のバックパックを掴んで部屋を出た。新潟出身の紗希と違って、オレの実家は横浜なので、一晩くらい、帰ろうと思えばいつでも帰れた。紗希はその性格から、友人の数は多かったが、きちんと信頼ある友人関係を構築することが苦手で、もしあのまま紗希が部屋を飛び出しても泊めてくれるような友人がいないのはオレもわかっていたし、ネットカフェかなんかでナンパされてそのままどこかに行かれたりしても困るし嫌だから、そうすると、やはりオレが出かけるしかなかった。同棲するというのはこういうことなのか、というのを、よくわからないがなんだか思い知ったような気がした。実家の最寄り駅を出て、近くのスーパーに寄った。日本酒売り場で、紫色の箱に入った、勾玉のマークが印象的な四合瓶の日本酒を買った。以前にも買ったことがある酒で、どういうわけか、その酒が、いまの紗希との暮らしにはない何かを象徴しているようにオレには思えた。紗希は、おしゃれなものやよさそうなものにはとにかくうるさい女だったが、その言動の多くが、本質、からはかけ離れていることが多いと当時のオレも薄々は感じるようになっていた。紗希は顔もかわいいし、スタイルも悪くなくて、そのへんに放っておけばすぐにナンパされるというような種類の女で、どうしてオレが付き合えたのか、いまでもわからないときがあるが、とにかく、紗希と付き合うのは喜びも多かったが、大変なこともたくさんあった。そんな日々の暮らしで疲弊しかけているときに、きちんとしたお米を使い、きちんとした製法で作られたその純米酒は、オレにとって、真っ当なもの、の象徴のように感じられたのだった。紗希とはとっくに別れたし、紗希と暮らした街にもほとんど行くことがなくなった。地元のそのスーパーにはいまでも立ち寄るが、もうそのお酒は取り扱われていない。一度、酒売り場の担当者に入荷の予定を聞いてみたことがあったが、問屋の都合でもう仕入れが難しいと思う、というようなことを言われた。昨日、客先を訪問した帰りに暇つぶしに立ち寄った目黒区の大きなスーパーの酒売り場で、久しぶりにその酒を見つけた。四合瓶がないものかと探したが、取り扱いがあるのは一升瓶だけだった。その後に電車で帰ることを考えると、流石に一升瓶を買うのは憚られた。地元のスーパーで買うことができなくなってから、もう随分とその酒を飲んでいない。美味しかったことだけは覚えているし、オレが好む辛口の酒は、淡麗なものが多いなかで、珍しく、香りが濃いタイプだった。その酒は、天の戸 美稲、と書いて、あまのと うましね、と読む。(2018/01/09/18:55)

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