素晴らしいライブと、下らない考えの、やや不純な日記
教授が音響の監修をした映画館に、教授のラストライブを観に来た。限定上映だったので、なんとか期間内に来なければ、とちょっと無理をして、そして、多めに駐車代を支払って、来た。
平置きの駐車場に車を置きたかったのだが、東急歌舞伎町タワーの駐車場は機械式だった上に現金とパスモでしか支払いができない、というよくわからない仕様だったのでやめて、700円割高となる、タイムズの平置きの広い駐車場に車を置いた。夕方にさしかかろうという時刻だったが、昼下がりから降り始めたひどい雨であたりはずぶ濡れだった。地下駐車場から出て雨を避けながらあの有名(?)なエスカレーターに乗った。エスカレーターを上がるとすぐにキラキラとしたネオンが光っていて、外国人環境客をメインターゲットにしているであろうと思われる飲食街が広がっていた。お上りさんのような気分でそれらの彩りを横目に見て、エレベーターに乗った。小洒落た、というか、ファッションに関心があることを示すような雰囲気のやや尖った服装のお姉さんがエレベーターホールで先に待っていて、来たエレベーターに一緒に乗ると、お姉さんが俺が降りるのと同じ階である十階のボタンを押した。シアターは九階と十階にあるのだが、受付がどこの階にあるかという記載がなかったので、いきなり十階に行ってもいいのかわからなかくて、そのことを世間話感覚でそのお姉さんに聞いてみようかとも思ったが、無駄に話しかけてもな、と思い、思いとどまった。お姉さん、と書いているが、俺と同輩か、あるいは年下かもしれないが、わからない。自分の認識よりもどんどん自分が歳を重ねていくので、お姉さん、という認識の女性が、聞いてみれば年下だったりすることも随分と増えた。同性に関しても同じくではあるのだが、同性の年齢にあまり関心を持つことがないので、そういえばあまり気にしたことがなかった。そんなわけで、十階に降り立って映画館の受付まで歩くと、お姉さんはスマホの画面をQRコードリーダーにかざしてすんなり入場してしまった。俺はと言えば、この映画館のサービスに会員登録したことがあるような気もするし、無いような気もするが、全く思い出せなかった上に、もちろん会員登録していたとしてのID情報などもわからなくて、そもそも運転していてオンラインで事前にスマホで券を買う暇もなかったので、そこにあった券売機で非会員として券を買った。場内に入ると、QRをかざせば大盛りのポップコーンと無料のドリンクをおかわりし放題で受け取ることができる。ただし、おかわりできるのは購入した券の上映開始時刻までとなっていて、そのせいで、ついうっかり貧乏性を発揮しておかわりをしてしまい、その後になって、邪魔な山盛りのポップコーンを抱えて入場せざるを得なくなった上に、直前におかわりもして二杯目も頼んでしまったドリンクのせいで、あろうことか上映中に尿意をこらえなければならない羽目になってしまうのだが、そんなことは露知らずと、図々しくも俺はおかわりをオーダーしてしまった。お姉さんは一人で劇場に来ていて、タイトルは見えなかったが文庫本をテーブルの上に置いて、劇場のホット用の紙コップでドリンクを飲んでいた。途中、席を立って、シアター7の前の電光掲示板を写メっていたので、坂本龍一目当てなのだろう、ということがわかったのだが、平日のこんな時間に、ひとりで坂本龍一のコンサートを聴きに来るなんて、きっと話が合いそうな気がしたのだが、話しかける理由としてはそれだけではやや物足りなく、別に何も話しかけたりすることなく、俺はポップコーンをつまみながら、窓の下の景色を窓から眺めていた。A席とS席しかない、プレミアムな映画館なわけだが、サービスのドリンクはまぁおかわり自由の飲み放題に設定されているだけのことはあって、高級そうな雰囲気のメニュー表とは裏腹に、サントリーのドリンクバー用のコンクドリンク一式で構成された標準的なラインナップ(サイゼとほぼ同じです)で、ジンジャエールを頼んだのだが、けっして特に美味しいとは言えない、ありふれたクオリティだった。おかわりでホットのカフェラテを頼んでみたが、これも妙に苦くて、同じく美味しいとは言い難い代物だった。おかわり無料じゃなくてもいいから、もっと味わって飲めるような飲み物にしてくれたらいいのに、と後に尿意に苦しんだ後で改めて思った。ポップコーンは、塩とキャラメルと、そのハーフ&ハーフが頼めるのだが、ハーフ&ハーフを頼んだところ、キャラメルのほうが美味しかったのだが、その後、おかわりで頼んだキャラメル味も含め、ポップコーンをひたすら食べていたら、いつしか口の奥にコーンの粒の皮が引っかかって、しかも味にも飽きてきて、これを書いている今も、上映終了してしばらく経つが、まだポップコーンはたんまり余っている。待合ラウンジのBGMも坂本龍一が手がけているとのことだったが、最近の教授の作風っぽい、アンビエントな雰囲気の音で、心地よかった。上映時刻が近づくと、小学校のチャイムを思わせるような音階構成と、やや不協な響きを感じられるメロディが照明が少しトーンダウンするのと合わせて流れて、シアターの扉が空いた。さっきのお姉さんが真っ先に入っていくのが見えて、俺もあとに続くと、俺とお姉さんの他には誰もまだいなかった。俺は奮発して高級なほうであるS席を取っていたのだが、お姉さんはS席ののすぐ後ろの列のA席を取っていた。まだ場内に誰も他にいないし、席が近いのもあって話しかけようかと思ったが、やはりまだこれだけでは話しかける理由としては弱いような気がしたのと、よくわからないひとにいきなり話しかけられるのも気持ち悪いだろうなと思ったので、やめた。近日公開予定の映画の宣伝が流れるなかで、教授の曲をふんだんに使った是枝監督の怪物の宣伝も流れたりして、坂本龍一になにかとゆかりがある劇場の空間のおかげで、ラストライブを観るのにむけて気持ちが高まったような気がして、とても良かった。怪物は、メインテーマにaquaが使われているというような雰囲気の宣伝映像だったのだが、aquaって、もっと都会の夜のしっとりしつつも洗練された雰囲気、のイメージだったので、やや違和感があったが、教授の曲がたくさん使われている、教授の最後の仕事のひとつである作品、と思うと、ぜひ観てみたいと思った。ライブの上映は、唐突に、教授本人のビデオコメントから始まった。没後に上映されるラストライブ、というような形に結果としてなってしまったが、当然、生前から企画されていた作品なわけで、画面の中の教授としても、まだもう少しは元気だったころに収録しているのだろうし、別に決して遺作というわけでもないのだろうが、教授本人のコメントと共に幕が上がる様がなおのこと、なんだか遺作のように感じさせてくるような気がした。Little Budda にアレンジと即興を加えた演奏から始まるが、やわらかく、しかし、散りばめられるように鳴る音に、いきなり、あろうことが、心地よい眠りに誘われそうになってしまった。寝不足だったわけでもないし、退屈だったわけでももちろん無いのだが、ゆらぐような感じが、ふわふわと思考を解きほぐすような気がしたのだが、もちろん眠りはしなかった。トニー滝谷の曲は、個人的に十年くらい前によく聴いていたこともあり、しんみりと聞き入ってしまったし、メロディの粒がはっきりとしたようなタイプではない、和音を重視したような曲が何曲か続くなかで、安定のAqua、そして、ピアノソロアレンジはこの演奏が初めてだというTongPooと続く。トンプーは教授自身もほんのり笑みを浮かべ、懐かしそうに、そして、噛み締めるように、うんうん、とでも言うように演奏していて、なんだか観ていていい気分になった。アレンジも本当にとても素晴らしかった。そこからワーサリングハイツのテーマ、これは二十歳になりたてだった頃に行ったフランスで、当時持っていたHDDタイプのiPodに入っていた岡城千歳の演奏による、坂本龍一のピアノソロコレクションに入っていた演奏をよく聴いていた、という曲で、別にパリとはなにも関係ないのだろうが、ついパリの街並み、その辺のスーパーで買ったワインを狭いホテルの部屋で飲みながら聴いたこと、などを思い出してしまう。最新アルバムからの曲もはさみながら、シェルタリングスカイ、ラストエンペラー、戦メリ、と畳み掛けるように有名な映画音楽が続く。今回の上映は、2022+、ということで、ボーナストラックとして、去年の配信世界公開時には含まれなかった曲が1曲追加されていると聞いていたが、それがハッピーエンドだった。いっときはご本人も嫌に思っていたというほどのヒット曲として戦メリとも並ぶエナジーフローは演奏されなかったし、他にも聴きたい曲はまだまだあった。とはいえそんな気持ちとは裏腹に、上映前に飲みすぎたドリンクのせいで尿意の我慢も限界に達しようとしていて、このくらいでちょうどいいのかもしれない、などと、途中で離席する羽目にならずに済みそうなことに胸を撫で下ろそうとしている自分もいた。最後は、エンディングとして、Opusがいままでとはやや変わった引きの画角で、照明もスタジオの全貌が見渡せる白く明るいライティングに変わって演奏された。まだ物足りない、というくらいのところですっと演奏は終わり、最後の余韻を響かせた後に、教授は自らの足で立ち上がりスタジオの中を歩き、画角の外へと消えていった。そのそもこの上映は去年に収録されたライブ映像を観ているだけに過ぎないわけだが、しかし、新宿での地で、2023年の5月に、教授の最後の作品のひとつでもあると言える新しい映画館で、このライブを観ることができたことで、なんだか満たされたような、とてもいい気持ちになれた。場内が明るくなるや否や、気持ちの中では駆け足で、しかし実際には走ったりはしないようにして、でも尿意をこらえながら慌ててトイレに向かい、用を済ませてロビーに戻ると、あのお姉さんが窓際の席に座ってスマホを触っていた。隣の席もちょうど空いたところで、座りに行こうかとも思ったが、それもなんだが気持ち悪いだろうと思ってやめた。お姉さんはA席なので、S席を買うと使えるプレミアムラウンジを使うことができない。俺は早くプレミアムラウンジに行ってお酒を飲みたかったのだが、一度むこうのラウンジに行ってしまうともうこのロビーには戻れない仕組みになっている。ライブの余韻でなにかすぐに行動を起こしたいという気にもなれなかったので、なんとなく、そのままお姉さんの後ろのソファに座ってスマホを眺めていた。ふと、雨が上がった街並みが気になって、窓際に行ってみたくなったので、まだ大量に残っているポップコーンと荷物は席に残したまま、窓際まで歩き、下の街並みをカメラに収めた。お姉さんは変わらずスマホを眺めていて、その姿を横目に見ながら、なぜ俺はこの人のことがこんなに気になるのだろうか、と考えながら、もとの席に戻った。よく観るとべつに顔立ちが好みというわけでもないし、ファッションの系統に惹かれるというわけでもない。異性に飢えているわけでもないし、かといって発散できないで疼いている性欲を持て余しているというわけでもない。関係性を求めているのだろうかとも考えてみたが、なんだかそれも違って、可能性の香りに惹かれるのかもしれない、という結論に至った。一言さえも言葉は交わしていないし、むこうからしたら、その辺にたまたまいたおじさんの一人でしかないのだろうが、俺はきっと、もしかするととても話が合い、何かを分かち合えるひとかもしれない、という可能性を、坂本龍一のラストライブを高級な映画館にわざわざ一人で観に来る女性、というフィルタリングの効果に起因して、勝手に考えているのかもしれない、と思った。誰かに話しかけることは決して不得意というわけではないし、もっともらしい話しかける口実とか、なにかしらの話しかける理由さえあれば、わりと気持ち悪いと思われることなく話しかけられるのではないかとは思うが、残念ながら、そういう名目もあまり見つからない。節操なく声をかけて、とにかく女性と過ごしたいとかセックスがしたいとか、そういうわけでは本当にないし、ただ話してみてどんな人なのかを知ってみたい、というわりとピュアな欲なのだとは思うが、結局は他人に興味がない、などと言いながら、なぜ自分は他人に興味を持つのかについて、さっきから、また考えた。鏡のようなもので、ひとは誰かを通してでしか自分のことを確かめることができないから、何度傷ついても、あるいは何度裏切られても、それでも他人に興味を持つのではないだろうか、という結論に辿り着いてかれこれ十年以上は経つのだが、人は、たとえば安定したパートナーや家族がいたとしても、もちろん実際に浮気したりするかどうかは別としてだが、それでもなお、どうして他の人に興味を持ってしまうのだろう。前述したように、セックスに飢えているわけではないし、いまのパートナーや生活に飽きたわけでもない。たまたた鉢合わせた趣味が近そうな女性と深い関係になってセックスに漕ぎ着けたいというわけでも別にない。だが、深く分かり合えるかもしれない、という幻想が脳裏をちらついてしまうくらいには、愚かさを捨てきれていないのだろう。深く知ったら知ったで、逆に興味を失ったり、厭になったりするのが常だったりもするのに、どうして性懲りも無く、ありもしない幻想が、きっとありえるかもしれない、という幻想を抱いてしまうのだろうか。もっとも、たとえば、この目の前にいる見ず知らずの他人と、紆余曲折を経て、いつの日にか寝食を共にするような関係になったとしても、日常の生活感あふれるワンシーンの中で、ふと相手の底が見えたような気がして厭になってしまったりするのだろうな、というところまでも想像できるくらいには大人になったというか、経験を重ねたというか、しかし、それは臆病になった、とも言えるかもしれないと思うこともあるのだが、とにかく、ただそうして、目の前を誰かが通り過ぎていくようになった。お姉さんが席を立ち、トイレに向かうのが見えて、それからまた数分して、トイレから出てエントランスの方へ向かうのが見えた。ロビーでゆっくりスマホをみているくらいだから、そう急ぐ用事はなさそうだったし、もしかしたら話しかけていたら食事くらいは一緒にできていたかもしれないとか、連絡先を交換してひょうんな共通点が見つかって親密な関係になっていたかもしれないとか、そのくらいのことは相変わらず想像したりはするが、それでも、結局なにも行動に移すことなく、おねえさんを見送ってしばらくしてから、ロビーを出て、俺もS席用のラウンジに移動した。ラウンジの端の席に陣取ると、ちょうど夕日が沈もうとしていて、まだ雲が残る雨上がりの晴れ空に、綺麗な夕焼けのグラデーションが描かれていた。スタッフのおねえさんがバーカウンターから出てきて仰々しくメニューを差し出してくれて、山崎、響、白州などのウイスキーと迷いながら、ウイスキーのシングルなんてすぐになくなってしまうから、という理由で、ナパの2019年の赤をオーダーした。ブルゴーニュ型のグラスに、わりとしっかりとした量を注いで出してくれて、夕焼けを背景にテーブルの上に置いたワイングラスの写真を撮るだけで、とても絵になっていた。それから三時間、追加のドリンクをオーダーすることもなく、このラウンジでこの文章を書いた。途中で違うことをしたり、映画の感想をミナコと話したりもしながら、何文字あるのかわからないが、MacBookの画面いっぱいに細かい文字が埋まるまで、この文章を書いた。もうすぐ22時になろうとしていて、さすがにそろそろ帰ろうかとは思っているのだが、持ってきたポップコーンはほとんど減っていない。やっとさっきワインを飲み終えたが、こんなに時間をかけて一杯のワインを飲んだことは、いままでの人生には無かったような気がする。窓の外に広がっていた夕焼けは、すっかり色を変えて、とっくのむかしにそこには夜が広がっていた。遠くにあるスピーカーからは、控えめな音量で教授の楽曲が流れている。普通の人は、小一時間も滞在すれば帰ってしまうのだが、こうしてこの長い文章を書いている俺は、飽きることもなく四時間近くも滞在してしまった。特別に美味しかったというわけでもないが、そつない無難なワインではありながらも、夕焼けや夜景を背景に飲むワインは、実際の味わいよりも美味しく感じられて、いい時間を過ごすことができたように思う。ASYNCのパフォーマンスの映像も観たいのだが、公開終了までに来ることができるのかどうかはいまひとつ自信がない。都心から程近いとはいえ海を隔てた田舎で暮らす、いまの暮らしが、いいのかどうかはわからないが、ふとたまにこうしてお金をかけて東京に来ると、たまのことで新鮮に感じられるからかもしれないが、こういうのも良いよな、などと思ってしまう。監視されているわけではないにせよ、人目があって、音を出したり電話で喋ったりすることはできなくて、結果として、眠ってしまったり他のことをしてしまったりすることなく、こうしてずっとパソコンに向かい文章を書き続けることができたので、こういう環境も良いよな、などと思ってしまう。衆人環視があって、という意味では、たとえばアウトレットのラウンジとかでも同じなのだが、集中を乱すものの差は雲泥だ。これがこの場所ではなかったら、何文字あるのかはしらないが、この文章をこうして一気に書くこともできなかったと思うし、書きたいことを形にする前に途中で書くのをやめて、書きかけの文章がメモ帳の中に残って終わっていただろうと思う。ひとつ思ったのは、きょうみたいなことがあったときに、もっともらしい口実を言えるような生き方になりたいな、と思った。やましい意味ではなく、本当に相手に興味があって話を聞いてみたいと思っているわけで、取材でもインタビューでもなんでもいいのだが、わたしに何かを聞いてみたいという必然性がこの人にはあるみたいだ、と相手に思ってもらえるような名目で話しかけることができれば、現実が実際にどうなるかは知らないが、何かの可能性を見つけることができるようになるのかもしれない、と思った。記者でも編集者でもライターでも、なんでもいいのだが、なんらかの形で、何かを発表したりできるような生き方にできるといいな、と思った。アウトプットすることが真の目的ではないという点では、やや不純かもしれないが、自分が知りたいから、自分が興味があるから、だから聞く、ただそれだけのことができればいいのだと思う。何が書きたいのかよくわからない文章だった気もするが、教授の曲を聴きながら、静かで見晴らしのいいラウンジで、キーボードと向き合って頭のなかにある言葉を文章にすることができたのは、間違いなく、いい時間の過ごし方だったと思っている。そろそろ、現実に帰らなければならない時が来た。あしたはトラックに乗って仕事をする日だ。おれはいったい、なにをやって、生きているのだろうか。
(2023/5/11 21:47)
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