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命のありか

師走

2020年が終わろうとしています。
今年は暖冬で、そうすぐクリスマスだというのにまだ紅葉が残っています。
例年なら年末には必ず地元に帰っていましたが、今年はコロナのため帰郷もしないことにしました。
思えば、地元以外で年を越すのは人生で初めてだということに気が付きました。
本当に、最初から最後まで、何から何まで、例年通りにはいかない2020年になりました。

一つ大きな変化を挙げるとすると、人に会わない時間が圧倒的に増えました。
今までになく自分自身に向き合う時間が増えて自分としては結果的にとても良い状態に思えましたが、
そうは感じない人も多かったことでしょう。

会いたい人に会えないというのは、とても辛いことです。
でもそれと同時に、会わなくなってもなんてことのない人がいるという事にも気づいたんじゃないでしょうか。
自分にとって本当に必要な人の存在に気づけたような、そんな期間だったことは確かです。
事実、仕事で日常的に会う人でもプライベートでは全くその人のことを考えたことがない、という人もいれば、もう何年も会ってないのにふとした瞬間によく頭をよぎる人もいるはずです。
”会える”ということにはもちろん大きな価値がありますし、とても大事なことです。
しかし、それだけが真に価値のあることではないはずです。

胸の中に生きている

「彼が死んでも、私の胸の中にずっと生きている」「心の中にずっとあの人がいる」
なんて表現をドラマとか映画の中で聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

これってその人が勝手に妄想しているだけとか、ドラマチックな言葉の表現とか、そういうものでしょうか。
私はそうではないと思います。

残酷な例を出します。
AさんとBさんがいたとします。二人は親友でした。しかし、親の都合でBさんは引っ越してしまいます。
Bさんが引っ越した後もAさんはBさんのことを毎日のように考えていました。
たとえ会えなくても二人はかけがえのない親友だと信じ、いつか会える日を夢見て生きていました。
しかし実はBさんは引っ越したすぐ後に事故で亡くなっており、Aさんはそのことを知らないまま長い月日を過ごすことになるのです。

さて、とても可哀想な話でしたが、この時何が起きていたのでしょうか。
要するに、この時Aさんの意識の中ではBさんは生きていたのです。
そしてこれは、Aさんがただ現実を知らずに勘違いしていただけの話ではなく、これと同じ状況は現実に容易に起こりうるし、実際に日常的に起こっていることです。

地元の友達とか、趣味で繋がっている友達とか、学校の同級生とか、久しく会っていない人はたくさんいます。
その人達は、今生きているでしょうか?
もしかして自分が知らないだけで今はこの世にいないかもしれませんよね。
そして、その人達が生きているかいないかで、あなたの何が変わるでしょうか。
きっと何も変わらないはずです。

では、人が生きていることとはどういうことでしょうか。
これは、”命とは何か”とかそういう難しい話ではありません。

それは、あなたがそう思っているということです。
つまり、あなたが、”あの人は生きている”と思い込んでいるだけなんです。

これはあらゆることに言えることで、人が自分で確かめられることなんて本当に僅かなことだけで、
ほとんどのことは”きっとこうである”とか”おそらくこうである”と信じて、思い込むしかないんです。

それはただの記憶か

離れた愛する人のことを想うということは、基本的には美しいことと捉えられると思います。
しかしこれって言い方を変えてしまえば、ただ記憶の中の過去を愛しているだけとも言えるかもしれません。

答えはおそらく、YESです。

そもそも、過去とは曖昧です。
個人の記憶にしても絶対に確かなんて言えるものはないし、データとして記録されたものも改竄出来たりするので、絶対的に信頼出来るものはありません。(もちろん信頼度が高いものはありますが)

それに細かいことを言うと、
過去の記憶を思い出す時、私たちの脳内では断片的な記憶を寄せ集めて、過去を再構築しているらしいです。
つまり、厳密には記憶をそのまま思い出すという事は不可能で、だから誤った記憶が思い出されるということがしばしば起こるのです。

そんな曖昧な記憶の中の過去を愛しているのですから、その行為自体が曖昧なものと思われるかもしれません。
しかし、私はそこにこそ強烈な命の香りを感じるのです。

命というものが身体の運動だけではないということは皆さんお分かりかと思います。
人には心というものがあるからです。
たとえ身体が機能していても、人間として機能できなくなってしまうということもあると思います。

むしろ、この心にこそ命の真髄を感じるように思います。
なぜなら、遠く離れた場所にいて身体を確認できなくとも、電話やメールの一つでそこに命の存在を感じることが出来るからです。
もちろん身体を軽視しているわけではありません。
ただ、命が物質を超えるということは、命を身体以外にも見出した人間にしか出来ないことで、だからこそ人間はそこに最も価値を感じるのではないでしょうか。

無条件で信頼する

ある時、実家に帰っていた時のことです。
母が急に話し始めました。
「空って繋がってるじゃんね。だから空を見ると、この空の下のどこかにあんたがいると思える。だから、遠くても大丈夫だって思うんだよね。」

ちょっとドキッとしましたが、その時は「確かに、そうだな〜」くらいに思っていました。
しかしそれ以来、空を見上げる度に母のことを思い出すようになりました。

サン=テグジュペリが著したかの有名な絵本「星の王子様」の中に、こんな言葉があります。

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」

この言葉を読んだ時、母が言った言葉を思い出しました。

私はこの絵本が大好きです。
シンプルだけど生きる上で本当に大切な言葉が詰まっています。

大切なことは、この砂漠(または空)を見た時、”遥か彼方に潜んでいる大切な人のことを想う”という行為そのものです。
そしてたとえ眼前に見えなくとも、同じように自分のことを想ってくれている人がいる(いた)、ということ。
それは過去を肯定することと等しく、また、現在の自分の存在を肯定する行為でもあります。

なぜなら、眼前に存在しないものを思うということは、身体に依存しない、真に心が求めたことだからです。
同じように他者に真に求められるということは、その経験だけで自分の存在を肯定するには十分ではないでしょうか。

ですから本当のところは、今相手が生きてようがいまいが、関係ないのです。

これは妄想ではありません。
言い換えるならば、”無条件で信頼する”ということです。

当然ですが、他人のことは分かりません。
だから自分は愛し合っていると思っていても、本当はそうではないかもしれません。
でも、それでもいいのです。
未来なんてどうでもいいほどに、”無条件で信頼する”ことが出来る人が”今”自分の中にいるということ。
それは絶対に確かなことです。

人は生まれながらにして社会性を持った生き物です。
一人で生きていくことは出来ますが、人との関わりの中に見出す幸福感は一人の時の比ではありません。
これは科学的にも証明されているらしいです。

ですから、人との関わりは財産です。
そして、上辺の関わりを超えた心と心の関わりこそが、人生には必要なのです。

私はその中にこそ、命を感じます。

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