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雑記 12 / 工芸と自由鑑賞

先日の記事を書いた直後に日本の美術教育で行われる「自由鑑賞」を嘆く投稿を目にした。たとえば抽象画を目の前にして「あなたの感性のままに自由に鑑賞しましょう」「ウサギが見えました」「自分は銀河に見えました」「皆さんの発想は自由で素晴らしい」といったアレ。本来はアートの文脈を学んで抽象画を観るための知識と視点が必要なのに、それをすっ飛ばして「自由が一番」としてしまうアレへの苦言。これが原因で日本においてのアートはセンスの問題で理解しにくいものという認識を生んでしまっているのではないか、という批判だ。(というかこれってまだ存在してるんですか?ほんとに?)

しかし、この「自由鑑賞」というものは「見立て」と並べてみると納得できる部分もある。要するに対象物を既存のカテゴリーだけで捉えるのではなく、別の在り方の可能性を見出していく行為だからだ。「見立て」における思想的な部分を取り払って、別の見方をするという行為だけが残された状態が「自由鑑賞」なのかもしれない。

女性の一般教養・習い事としてお茶とお花が推奨された頃からの流れで考えると自然かもしれない。作法の先にそういった見立ての感覚を学ぶプロセスもあったかもしれない。美術教育とそれが交差したかもしれない。その「見立て」の感覚を磨く訓練からドグマが取り去られた状態を想像してみる。そこにポストモダンなアートの概念が中途半端に入り込んでくる。芸術は自由で爆発な話のうわべだけが取り入れられる。そうするとかつては「見立て」の力に発展するべき道筋だった教育は宙ぶらりんの虚無となって、「自由に鑑賞する」という行為だけが残る。

完全に推測でしかないけれど。
美術教育に詳しい方ならご存知の話で、全然違うのかもしれないけれど。

「見立て」に通じる道と仮定すると「自由鑑賞」というのは非常に高度なスキルのはずだ。原因や目的性の設定なしに、合目的性を見出す美的判断をした上で具象の認識に落とし込む行為だからだ。とてもカント。

その仮説の正誤はともかく、おそらく日本の美術を鑑賞する上で「自由鑑賞」のスキルはあった方がベターなんだろうけれども、そこに至る道のりやノウハウが教育現場にはないんだろう。だから教育現場でどうすべき、って話は特にないです。


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