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雑記 11 / 道具として見ること、工芸

「『工芸』とは何か」「『工芸』はアートか」、と問われ続けて久しい。元を辿れば「工芸」という言葉が生まれたパリ万博前後の頃から問われ続けている話だろう。言語構造的に「とは何か」という問いの立て方そのものが、そもそもの問うべき問題点をクリアにできていないし言語構造的に機能不全に陥りやすい構造になっているんだけれども。

という話は一旦脇に置いて、「使えない器」を作ることで、あるいは既存の用途から外れた陶芸作品を作ることでファインアートである、と主張するのも違和感がある。というよりも、前提として「道具よりもファインアートの方が格上」という西洋文脈の価値観を内面化してしまっている。あるいはそうすることで世界のアートマーケットに乗り込む、土俵に乗る、という意図もあるのかもしれない。

しかし日本の工芸の凄みの一つに「見立て」という概念がある。本来の用途とは異なる仕方で、あるいは「使えない」ものも道具として使ってしまう鑑賞行為だ。具象の物体を抽象的に捉えて、他の意味性に置き換えていくこと。茶ノ湯の世界ではよく行われる。鑑賞者が物体に対して積極的にコミットすることで、道具としての別の意味性を付与するこの行為は、「アートの文脈に置かれたものは全てがアートになる」というポストモダン的な思想に対する別の解ともなる。少し乱暴に言えば、価値付けのための行為と意味付けの行為の違いだ。価値のために行われるアートワールドの営みに対して、存在の意味とそこに生じるコミュニケーションにまつわる行為の違いである。

食器をメインに扱う仕事の頃から「で、これは何に使うの?」という質問をあらゆる現場で受け続けてきた。今思えば、分からなさ故の質問ではなくて、その人自身が考える用途に対する肯定を求める質問だったんだろうと思う。(あるいは販売員へのテストの意味もあったかもしれないけれども)このうつわをこんな風に使おうと考えている自分のセンスに間違いはないだろうか、それとももっと面白い使い方があるのでは、というコミュニケーションでもあったのだ。

今だと絵画や立体造形作品であろうともそこに何かしらの意味を見出し、空間の中で関連させながら、意味付けを行うような仕事をしている。いわゆるファインアートと呼ばれるジャンルの作品であっても、そこに意味や、空間あるいは他の作品との繋がりを見つけていくこと。これはある種の「道具」として見立てることだと思う。
「工芸」とはこうして意味性や道具性を見出していく視線の上に生じるものであって、作品の属性だけで説明ができるものではない、というのが僕の立場だ。破れた茶碗が、いわゆる茶碗としての用途を為さないものであっても、別の意味を見つけること。それはもしかしたらお花や抽象的な観念を受け止めるうつわであるのかもしれない。
この作品と鑑賞者の関係性、そしてその意味にさらなる拡張可能性を与えるのが作者存在ではないか。このような図式を日本に於いて「工芸」と呼ばれるジャンルに見出すことは可能だと思う。その見方を体系化できた時に、本当の意味で日本の「アート」は西洋文脈のアートマーケットと渡り合うことができるのではないかと考えている。

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