青山Q太郎

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青山Q太郎

まとまりのない事を書き続けるだけです 美術と本と音楽の話が多いです X(Twitter)→@bmyasu

最近の記事

日本現代うつわ論、『死んじゃいけない星』

『日本現代うつわ論』という本を2021年から作っている。 長くなるので端折って書くけれども大槻香奈さんが「わたしが作品に描いている物事を言語化しないといけない。『うつわ』という感覚を本にしたい」と言い出したのがきっかけだった。「あぁそれは面白そうですね、本作ったことないけど、僕本好きだし手伝いますよ、なんとかなりますよ」とノリと勢いでスタートして年に一冊、既に三冊発刊している。詳しくは内容については下記リンク先の巻頭言にて。 https://note.com/kanaoht

    • 『死んじゃいけない星』の『死んじゃいけない星』

      カントが言うには美的判断とは主観的で個人的なものである。しかしそこで判断された「美」は普遍的妥当性を持つものであるが故に、他者への共感を求めることになる。私による「美しい」という判断は同じ時代に生きるあなたへの共感を求める。 『死んじゃいけない星』は非常に力強く、シンプルに「美」と言い切るにはもっと特殊で個人的な感情を想起させながら、しかし同時に普遍的な強さを持っている。カントなら「崇高」と言うのかもしれない。字面からの印象は異なるけれども、そうした名状しがたい何かを強く提

      • 雑記 18 / わからなさと芸術

        芸術と向き合うときの「わからなさ」が実はとても重要で、その「わからなさ」を面白いと感じて向き合うことができるか否か。簡単にわかってしまうことよりも、そのわからなさの部分に本当の面白さは転がっているはずだ、という話を今日は店頭でしていた。自分自身の思いとして。 「わかる」ということは難しい。 その知識に関する全体像を把握していないと、本当に理解しているかどうかを判定することはできない。「自分はこれを分かっている」と定義するためには、「分かっている」かどうかをジャッジするための

        • 展覧会のはじまり / 『死んじゃいけない星』

          今日から白白庵では大槻香奈個展『死んじゃいけない星』が始まりました。 素晴らしい展示になっています。 http://www.pakupakuan.jp/exhibition/planetwhereyoumustnotdie.html https://pakupakuan.shop/ 設営が終わったタイミングでは「いい感じだ!素晴らしい展示になっている!」と思うけれども、毎回オープン前には「果たしてこれは本当に良い展覧会だろうか。自分は素晴らしいと思っているけれどもお客様

        日本現代うつわ論、『死んじゃいけない星』

          雑記 17 / まだカントを読んでいる

          このところまとまった読書時間が確保できず、『判断力批判』をだらだらと読んでいる。正直これだけ読んでると脳が疲弊するし、読んだものに影響されやすくすぐ小難しいおじさんになってしまうので、楽なものと並行で読んでおり時間がかかっている。このnoteを始めた日に「カントを読んでる」という旨を書いた。その時点で『判断力批判』上巻の3分の2くらいだった気がする。 今は下巻の本編は終わり「第一序論」という版を重ねて削除されたテキストに差し掛かった。スローペース。サクサク読める本でもないし、

          雑記 17 / まだカントを読んでいる

          設営の終わり、展示の始まり

          今日は大槻香奈さんの個展『死んじゃいけない星』の設営日だった。 設営の日はいつも二、三日前から眠りが浅くなる。「どんな風に作品を展示しようか、あの作品をここに展示するなら、その隣はあれで、いやそうするとここに出す作品が、でもあの作品はここにすると絶対見映えが良いから…」ということが頭から離れなくなり、常にうっすら展示構成を考えていることになる。 そうやって考えたことの半分は捨てて、半分は採用する。 結局のところ、その場で体を動かして、ギャラリー空間の中で作品を体験しながら作

          設営の終わり、展示の始まり

          技術者としての芸術家

          ずっと、芸術における「作者」の復権について考えている。この時代にいかに作者という存在の特別性を取り戻すか。あるいは作者という概念の一部分を新たに定義し直すか。端折って述べれば、近現代以降「作品」だけでなく「作者」すらも商品化されていった故に、あらゆる手段でなされるマーケティングと、その動きへの疑念の双方から「作者」存在は解体されていったと言える。 今でも確かに存在しているはずの作者と作品の結びつきが、そのようなアートマーケットの動きとそれに伴う批判によって覆い隠されるようにな

          技術者としての芸術家

          雑記 16 / 無限の前置き

          こうして毎日いろいろ書いているけれども、この言葉というツールの不自由さは、自分自身が「書く」という行為をうまく使いこなせていないからだろう。 僕はヴィトゲンシュタイン主義者なので(雑な言い方だ。ヴィトゲンシュタインが嫌うような表現)、言葉による記述には必ず限界があると考えている。 そして、美と倫理は言語の外側にある。 故に、言葉で芸術について記述してもそ絶対に、完璧に記すことはできない。 だからこそ、その外側にあるものを想像するために、できる限り誠実に丁寧に編まれた言葉が必要

          雑記 16 / 無限の前置き

          雑記 15 / 子育てのキャッチャー

          我が家には小学生がいる。愛おしき我が息子、今は二年生。 一人息子相手に「子育て」などと言うのもおこがましい。何億回と繰り返されたクリシェだけれども子どもから学ぶばかりの日々だ。それでも我々は親をやらなきゃいけない。それでもなんとか体裁をつくろいながら親にならなければいけない。親であり続けねばならない。 この自分の未熟さを考えると、子どもの頃はもうちょっと粘ればあれやこれやのワガママはもっとなんとかなっただろうな、と思う。 子どもと暮らしていると、まるで小学生だった頃をやり直

          雑記 15 / 子育てのキャッチャー

          小学館の図鑑NEOアート『図解はじめての絵画』

          小学2年生の息子に買い与えてみたら予想の何倍も充実した内容で、購入当日は家族で奪い合うように眺めた。 https://www.shogakukan.co.jp/pr/neoart/ 息子はテレビ番組や動画を見る習慣がなく、家にいる時には本を読むかゲームをしているか。どうやら小学校ではYouTubeの話題とかは出ているようだけれども、両親の再生履歴を眺めても音楽やよくわからない英語の動画ばかりで、お友達が見ているものには辿り着けないようだ。 そんな中、とにかく図鑑が好きで

          小学館の図鑑NEOアート『図解はじめての絵画』

          Audible 2 / Art History

          英語で流暢に美術の話がしたいなぁ、と思ってこれを聴きはじめた。シャドーイングとセットで。 そもそも日本語でも美術の話をスムーズにできるのかと訊かれたらまぁそうでもないし、むしろ会話そのものが別にうまくないけれど。 しょうがない。一人で本ばかり読んでたからだ。ならば一人で本を聴いて解消しよう。本を相手にコミュ力をアップしよう。 雄弁な美術史の語りをインストールだ。 さておき最近聴いたAudibleで一番良かった。 Art Historyとあるけれども、美術の歴史の話ではなく「

          Audible 2 / Art History

          雑記 14 / マスクを外して

          コロナ以降、今でも律儀にマスク生活を続けている。「コロナ明け」などとも言われるけれども別に根本的な解決がされたわけでもないし、今でも感染症のリスクは常にある。それでも「明け」とか言っちゃうから人間は勝手だし能天気だなぁ、と思う。もちろん生きていかなきゃいけないから、気持ちを作るための言葉なんだけれども。 などというリスクの話やコロナのそもそも論はさておき、四年間もマスク生活をしているともはや顔の一部で、メガネとかに近いパーツになっている。根本に個人主義を抱えるような人間にとっ

          雑記 14 / マスクを外して

          雑記 13 / 好きな作品とは

          接客をしていたら「で、あなたはどんな作品が好きなんですか?」と尋ねられた。難しい質問だ。そうですね、とひと呼吸おいてこんな風に答えた。 「作品が必要とする技術を習得した上で整えられた姿でありつつ、同時にその人だけの、その人でしかありえないようなどうしようもない何かが滲み出ている作品が好きです」 その人が求めていた答えかどうかは分からない。戸惑いの表情はあったと思う。なのでここで弁明する。 「作品が必要とする技術を習得」とは、上手いか下手かの話で言えば、上手い方が良いとい

          雑記 13 / 好きな作品とは

          雑記 12 / 工芸と自由鑑賞

          先日の記事を書いた直後に日本の美術教育で行われる「自由鑑賞」を嘆く投稿を目にした。たとえば抽象画を目の前にして「あなたの感性のままに自由に鑑賞しましょう」「ウサギが見えました」「自分は銀河に見えました」「皆さんの発想は自由で素晴らしい」といったアレ。本来はアートの文脈を学んで抽象画を観るための知識と視点が必要なのに、それをすっ飛ばして「自由が一番」としてしまうアレへの苦言。これが原因で日本においてのアートはセンスの問題で理解しにくいものという認識を生んでしまっているのではない

          雑記 12 / 工芸と自由鑑賞

          大槻香奈個展前配信に向けてのメモ

          https://shirasu.io/t/kanaohtsuki/c/yumeshika/p/20240402174505 ・クロノジカルに活動を追うことに意味がある作家 →現時点に至るまでのプロセス全てに意味が発生している。今分からない作品でも、必ず後の展覧会で答え合わせがある。 →時代の空気の鏡として機能しているとはそういうことではないか。 →少女以外のモチーフを通過することで過去作品にもそれがすでに含まれていたことが発見できる。少女以外のモチーフを通過した後にはその要

          大槻香奈個展前配信に向けてのメモ

          雑記 11 / 道具として見ること、工芸

          「『工芸』とは何か」「『工芸』はアートか」、と問われ続けて久しい。元を辿れば「工芸」という言葉が生まれたパリ万博前後の頃から問われ続けている話だろう。言語構造的に「とは何か」という問いの立て方そのものが、そもそもの問うべき問題点をクリアにできていないし言語構造的に機能不全に陥りやすい構造になっているんだけれども。 という話は一旦脇に置いて、「使えない器」を作ることで、あるいは既存の用途から外れた陶芸作品を作ることでファインアートである、と主張するのも違和感がある。というより

          雑記 11 / 道具として見ること、工芸