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晩秋やドラえもんとは大黒様

福が来るように大黒様だよ。なんかドラえもんに似ているな。もしかして、ドラえもんって大黒様の生まれ変わりかもしれん。そんなことを考えてしまったのも枡野浩一『ドラえもん短歌』を読んでいたからな。

「うたの日」いよいよ良くない影響が出始めたような。自分を見直すにはいい機会だとおもったのだが、ここまで駄目だと落ち込まざる得ない。昨日は「ドラえもん」短歌を十首つくることを罰ゲームとして課したのだがネガティブな歌しか出てこない。最後ぐらいポジティブさがでるようにしたい。

音数は七というのが難しいんだよな。そのへんを研究せねば。3音+4音。3音がなかなか出てこないんだよな。動詞になるのか?

ドラえもんのび太すがるは神頼みドラえもんとは大黒様 やどかり

おせち料理の予約が始まって、今年ももう後半なのだな。気づかなかった。仕事をしてないからだらだら過ごしてしまう。今年も来年も関係ない人間になっていた。

大根が安く昨日鶏大根をつくっていたのだが、まだ大根が煮えきらなかった。大根が厚すぎた。辛子が欲しかった。今日はおでんだな。もうそんな季節。

昨日は返却本の期限だったので図書館へ。『一人で始める短歌入門』と『月の文学館』は読み切ったのだが橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』はちょっとしか読んでなかったので再び借りることに。あと『詩活の死活 この時代に詩を語るということ』という詩の本を借りた。

読書はその『月の文学館』を急いで読んで感想アップ。

筒井康隆『唯野文学教授』を半分まで読んだ。パターンとして、前半が大学内の政治的駆け引きを戯画的に唯野教授の授業が『文学とは何か』の講義のパロディになっている。批評家は作家に馬鹿にされたくないから難しい理論でもって武装するけど、それでお前ら小説書いてみろ、ということなんだな。その批評家にはモデルがいるようで、筒井康隆を批判して大学でヤバいことをして首になったあの評論家だった。

『失われた時を求めて 10』5p.ぐらい。それだけでも大変なのは、会話が地の文と区別なく1p.にぎっしり余白もなく書いてあるから、筒井康隆『唯野文学教授』とは全然違う。筒井康隆の小説は会話だけでもストーリーが追えるのだが、プルーストは語り手の思考が複雑だから、それとプルーストの方もこれは完成原稿でもなく、間違いを訂正したりプルーストが思い違いをしていたりと錯綜しているからだった。

シャルリュス男爵の男色趣味がSMチックになり、そのホテルを提供しているのがジュピヤンで、男爵が町をうろつかないようにという配慮だと言うのだが、語り手はジュピヤンのブルジョワー的な商売だと思っている。男爵に同情的になるのは男爵ほどの知識があるのなら、それを作家として生かしていれば自立できたのにということだった。ジュピヤンのスノビズムは男爵のディレッタント(素人趣味)を利用しているだけでそんな男爵の老いに同情してしまうのだった。憐憫というか。

映画。なんとなくタイトルが似ていると思った『失われた日』は壮絶なドキュメンタリーだった。

「うたの日」はもうお題が出ていた(午前3時)。すでに91人が参加しているという世界だった。昨日は384人参加していたんだ。凄い世界だな。毎日短歌を作る人がそれだけいる。

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