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身体は神よりも水を求める猛暑かな

今日のお題だった。「猛暑の過ごし方」という冷房も冷蔵庫もない定年退職者がどう猛暑を過ごしているか?それは文春のテーマである「未来のためにできること」でもあるのだった。まずエネルギーを消費して活動している人間が本気で未来のことを考えるならば、企業のSDGsに乗っかっていては駄目だということを知るべきである。人間の経済活動が自然破壊を引き起こしていることを理解すること。例えば今なら映画館で涼みながら環境破壊の映画を見ることで意識を変える。

映画館に行くというのは簡単に涼を得る場所であり、他に無料な場所として図書館とかで過ごすというのもある。子供の頃は海とかプールに行けたのに最近は行けなくなった(そういう自然との触れ合いで涼を取ることも大切だ)。

それと駅までの道で街路樹がまったくないのはどにか改善してもらいたい。こういうところが駄目な行政なのだと思う。観光地域だけ涼風を演出していても(ミストとかあったり噴水があったり)、生活の場がまったく街路樹一つ植えることが出来てない現状なのだ(それがどれほどの灼熱地獄か公用車に乗っていていてはわからんだろう)。

あと軽装としてふんどしの着用はブリーフパンツより効果があると思える。ネットカフェで汗を流すときのタオル代わりにもなるので、速乾性にすぐれ二次使用が出来る快適グッズだった。シャワーも最近は清涼剤入りのシャンプーがあったりするのでそういうものに切り替えていく。

それと冷凍枝豆の氷枕は必需品であり、それで快適に寝てしまうことでエネルギーを消費しない。つまり、暑い部屋でも耐えるしかないのだった。

さらに暑い外ではサバイバル気分で灼熱地獄を楽しむというのがある。それは俳句や短歌を作って言霊の力を付けていくことだ。そんな非科学的なことだが、いくら科学的なことを言っても人間が経済活動をしている限り外部に熱エネルギーを放出しているわけであるから、やがて熱死状態になるのは当然として理解するしかないのである。

昨日はネットカフェ。図書館よりもネットカフェに行ってしまうのはシャワーがあるからだった。図書館にシャワーがあるというところはあるだろうか?

ネットカフェだと読書も捗る。茨木のり子『韓国現代詩選』を読んだ。散文よりも詩の方がエネルギー効率からしてもいいのかもしれない。学術書は暑苦しくてなかなか読めないのだった。

『窯変 源氏物語』も光源氏の一人称から紫式部の三人称の語りになるとやたら敬語が増えて読みにくくなっている。「宇治十帖」のかったるさは光源氏の反省から孫世代の薫とはやたらと考えすぎて行動に移せないところもある。一人称文体ではないのも回りくどいというのもあるかもしれない。大君とかのロマンスも八の宮の遺言のせいで自分の感情に素直になれないのだった。それは結局墓穴を掘ることになっていく。自分で考えて行動するということが出来なくなって世間を気にするようになっていた。

ネットカフェで映画『エレファント』を見る。コロンバイン高校銃乱射事件の映画だが、世の中のイライラを暴力によって解決しようとする悲劇だった。暴力も熱エネルギーだ。あらゆる場所で熱エネルギーの発散を求めてしまっているのだった。そうした経済活動をしているのだと思う。

今日の一句。タイトルはルビは使えないのか!

身体 いれものは神よりも水を求める猛暑かな 宿仮

今日の一首。

サバイバー
灼熱地獄
リアルの世
未来のために
HP節約

#猛暑の過ごし方
#未来のためにできること

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