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猫の神様

『フランシス子へ』吉本隆明

吉本隆明が最晩年に語った、最愛の猫・フランシス子の死。人は悲しみをどう受け止め乗り越えるか。自らの老いに重ね合わせ考察する。吉本隆明が最晩年(亡くなる3か月前)に、自らの老いに重ね合わせながら語った、最愛の猫・フランシス子の死。「戦後思想界の巨人」が、老、病、死、そしてその悲しみをどう受け止め、どう乗り越えたのかを、考察する一冊。吉本隆明の一周忌に寄せて刊行。

この本を読む前に野毛山動物園のライオンが死んだとネットニュースに出ていた。

なんか実際に空っぽの檻の前で確認しなければ信じられないのだが、たいした思い出があるわけではない。ただたまに気晴らしで行くとライオンをスケッチしていたりする人がいてけっこう人気者だったのは知っていた。あまりライオンという存在感を感じないのは寝てばかりいたから。それでもときどき吠える姿にライオンの存在感を感じた。

ペットを飼っていると家族以上にそのペットが近しい感じがするのは、ペットは言葉を喋るわけではないし、本当の気持ちはよくわからないが、寄り添うという、それは無神論の私でもペットの愛を感じてしまう瞬間というのがあったんだと振り返る。そのペットの臨終の場にいたときにはただ寄り添うだけの時間が最終章の物語となるのだった。そんなことをこの本を読みながら思った。

吉本隆明の最晩年の本は飼い猫の死によって存在論を綴るというようなエッセイだ。エッセイだが哲学的な思索で、「存在と無」の考察なのかなと。実存主義ではなく、吉本の場合は実感主義というような、和歌のホトトギスはそういう実感が持てないのだろう。現実生活でなかなか見られないし声も聞けない(YouTubeで声を聞けば実際に存在するのだと私は思うが)。

親鸞の「信」の問題もそういうことなのだが、ただ「フランシス子」は確かに実在した。死(無)に寄り添う場所と関係性という「フランシス子」との物語がある。年取ると寄り添うものが欲しくなるのかもしれない。死には寄り添えないと思ってしまうから。「フランシス子」との一つの物語なんだと思う。文学だ。

エジプトの猫の神がいたと思ったがそんなものだろうか?

そんなに大げさなものではなく極めて平凡な猫だというのだが。空っぽの檻を見て何を思うのか明日確かめてみたい。


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