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翻訳できない言葉を伝える文学がある

『セレクション戦争と文学 3  9・11 変容する戦争 』(集英社文庫)

2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロは、戦争の形態を一変させた。
9・11事件に象徴される新しい戦争の姿を、現代の作家たちが描き出す。

9.11に直接関係はない話も含めて、個人と国家という問題を考えさせらる作品が多かった。それは単一民族が信じる国とさまざまな多民族国家からやってくる者たちの言葉はより悲痛な叫びとなって(特にシリン・ネザマフィ『サラム』は悲痛な文学)届いてくる。戦争は多くの難民を生み出すのだ。そんなときにアフガニスタンで戦争ではなく、ダムづくりで平和を訴えた故中村哲氏を思いだす。

リービ英雄『千々にくだけて』

島々や千々に砕けて夏の海  松尾芭蕉
All those islands!
Broken into thousands of pieces,
The summer sea

9.11にアメリカの家族に合う約束をしていた在日アメリカ人の短編。ニューヨーク行きの飛行機はカナダのバンクーバーで足止めされる。ニューヨークに妹が、ワシントンに母がいるので会いに行く予定だったのだ。

家族への電話が普通になり混乱した状態は、空港でも彼の心理にも伺える。TVに映し出されるニュースは否応なしに悲劇を伝える。

最初に電話が通じたのはワシントンの母だった。ワシントンはペンタゴンがありその爆発音が聞こえたと80になる母は一方的に話す。父親が違う妹を招いたパーティはやるのだから絶対に帰ってこいと言う。母は異人たちとのトラブルは避けるべし、やアメリカ人がこんなに憎まれてしまったとか、話すが男は上の空で聞いている。ニューヨークにいる妹の安否が気になるのだ。

母はアメリカ人の思考でその事件を見ているが在日である男は非アメリカンとしての思考で考えてしまう。その距離感が電話を通して感じられる。何よりも自分中心の母の言動に耐えられなくなっている。母とは血が繋がっていない韓国系の妹の存在が気になっているのだ。

妹の留守電に繋がり折り返し妹から無事だったと電話がくる。自宅の部屋からビルの煙が流れているのが見える。紙が飛び散り、その一枚が飛んできてカトーという名の広告だった。その人は無事だったのだろうか?と言う妹の震える声を聞きながら泣きそうになる(これは私の感情だったかも)。

ニューヨークへは行けるかどうかわからないと言うと妹は、こんなニューヨークなんて来ない方がいいという。あなたの好きなニューヨークじゃない、と。ニュースはブッシュ大統領の声明を伝える。

母から再び電話があり、母の娘である妹の知り合いが殺されたのでパーティは中止だと電話がある。それを亡くなったという言葉に置き換える自分がいる。

芭蕉の俳句の解釈をquietよりもさらにstillnessという言葉で言い表す。音が立たないだけではなく、音が立つ動きさえしないというしずけさ。そんなことを思いながらバンクーバーのヨットマリーナを見ている。日本文学だな。

日野啓三は、9.11のエッセイ。資本主義社会の高層ビル社会の歪というような。

小林紀晴。9.11の時はニューヨークに滞在していた写真家。アメリカに滞在するアジア系移民たちの関心の様子を伝える。

宮内勝典「ポスト9・11」

アメリカに対する批判を含んだエッセイ。ただ一つ香田証生君のアルカイダ処刑に、日本の政府が何もしなかったことを書いている。そして彼は「小泉さん、スミマセンでした」という言葉を残して処刑された。

著者の同い年ぐらいの息子もバックパッカーでアフガニスタンを旅行中だったが無事に帰ってきたと。息子や香田証生君の軽はずみな行動を諌めながらもバックパッカーのように海外への旅を進めてきた著者のやるせない思い。

大学の教え子たちの無力感。ただ香田証生君のヴィデオを見たリスト・カットしていた子供たちが、もう止めたと言っている。それは何を意味するのか?

米原万里「バグダッドの靴磨き」、岡田利規の戯曲「三月の5日間」、平野啓一郎「義足」、重松清「ナイフ」、シリン・ネザマフィ「サラム」他。

小田実『武器よ、さらば』

幼い頃の戦争体験で反戦思想を肌で知る安保世代。小田実はベ平連で米兵役拒否者の活動とかで知られる。その頃にキューバ兵との関わりがあり、彼が日本に銃を持ち出していたと話とイラク戦争での従軍記者としての話が語られる。

銃を撃ったことがあるという記憶から、イラクでの従軍記者として反抗する兵士に理解を示す。彼らの論理では敵が武器を持ち出せば武器を持って戦わなけれならないという。

理想論として、武器を持たない自分を正当化しているのか、それとも相手の言うことも最もだと思うのかその辺はよくわからない。一人ひとりの思考の元での自由は尊重するということなのか?

米原万里『バグダッドの靴磨き』

父が勇敢な兵士だったが戦死して、家族のために靴磨きをする少年から話を聞く。彼はひ弱な叔父さんが母親と懇ろになるのを恐れている。しかし、イラク戦争で自身が米兵に足を撃たれたのを叔父さんが命を捨てて助けてくれたことから敵討ちをしたいという話で、聞き手と話し手の落差が面白い。話のネタということで、金を取るのだが、同情した米原万里はさらに多くの金を与えてしまう。それがピストルを買う金になったと知る不合理さ。

重松清『ナイフ』

弱い父親といじめられっ子の息子。イラク戦争で自衛隊で派遣されたかつての級友。級友は体格も大きく強くて憧れの存在だったが、一兵士としてイラクに派遣され生死にさらされる。

一方日本の社会では壮絶ないじめ問題がある。それを解決できない自分も小さくて無力な父親。そんな父親がナイフを手にしたことから、気持ちが大きくなるが、結局不良相手には通用しないで返り討ちに合う。その姿を息子に見られて情けなくなるが、弱い家族の結びつきを感じる家族愛なのかなとも思うが。

結局何も解決しないで終わる。ただ息子は一人で立ち向かうしかないというような。

ちょっと不思議なのは、母親の先生に告げ口が無効に終わって引っ込んでしまったところ。もとがんがんいくべきだとは思う。担任が駄目なら、校長とかPTAとか。それでも駄目なら教育委員会とか。話を大事にすることは息子のためにはよくないかもしれないが、それを知らしめることは必要だ。

政治的に。事大主義の世の中なら、その上に掛け合うのが、本当に守りたいのなら必要だったのではないか。ナイフをもたせ自分で守れっていう父親か?それで解決しても人間的にはどうかなと思う。結局、力がすべてだから。知恵も必要だ。ただイラクの自衛隊員の話があるから、そこも無力さを表したものなんだろうか?ただこの父親自体が家父長制的な会社人間で好きになれない。弱い自分を言い訳にしている。それでいて妻や部下に対しては権力を使う。

辺見庸『ゆで卵』

地下鉄サリン事件に遭遇した作家の私小説。9.11とは直接関係ない話だが、テロということだろうか?そして、個人と集団心理と同調圧力。それは、9.11でも同じなんだろうと思った。

個人のプライベートは私生活を描きながら、そこに漂うさまざまな変な匂い。ゆで卵の腐ったような匂い。ただそれは嗜好として、この語り手に取って愛着がわくものなのだ。それは愛する女の性器の匂いに通じるのかもしれない。

そしてサリン事件での見知らぬ白人が事故に出会い嘔吐するゲロの臭い。それを紛らわすために煙草を吸う。その煙草を注意されるのだ。善意のおばさんに。彼女に対する感情爆発。

例えば事件を報道する女性キャスター。悲劇の表情で近づいてくるが、善意の人助け燃える男が「あっち行け!」の一言でその表情はみるみる嫌悪感に変わる。そういう組織の中での人間と個人的な人間の感情が交差する。組織の中では人は感情を押し殺して、全体主義になびいていく。

それを否定も出来ない作家もいるのだ。ただそんな光景に嫌になる。そして、愛人との語らい。

シリン・ネザマフィ『サラム』

イランの在日作家。アフガニスタン戦争で難民となったが入管に収容されたパキスタン人の通訳として、弁護士に付きそう。いまある入管問題を問う短編(ノンフィクションか)

レイラという少女は父が反タリバンの軍人でアフガニスタンに戻ると命が狙われる。そして、その父がアフガニスタンで殺され連絡役を勤めていた兄も行方不明。それはレイラの難民申請には役立つ情報であるが、レイラに直接伝える言葉を持たない。

「サラム」という言葉はペルシャ語で、降伏するが平和を求むという言葉らしい。アフガニスタンで教科書にものる詩人の言葉の歌をレイラが歌う。彼女はその詩を学校で習ったが思い出せないでいた。

そしてレイラは強制送還されることになったのだ。日本ではタリバンがいるアフガニスタン人は、みなアメリカに敵対すると民族とみなされ、タリバンとの関係を問われる(事実上ではなく、日本が難民を受け入れないための理由としている)。そして、レイラの父はタリバンに殺された。

それはレイラに伝わっていて彼女は精神を病んでいた。彼女が「サラム」と言ったのは、母がタリバンに殺された時に小さく叫んだ言葉だった。それはどんな時でも「サラム」と言えば許されると母がレイラに教えた言葉でもあったのだ。その言葉がタリバンには通じない。それでも強制送還されることを弁護士に抗議するが、彼の個人の力ではどうにもならない。レイラと別れの言葉も言えず彼女は強制送還されて行くのだった。

タリバンと日本政府の言葉の通じなさは同じなのだ。それを一人の通訳者として訴えているような悲痛な叫びが感じられる。




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