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シン・短歌レッス36

菫ほどな小さき人に生まれたし  夏目漱石

すみれ。漱石の俳句はなぜそんなにいいのだろうと疑問に思っていたが、実際に「菫」はほんと小さな花だった。野生種の菫よりも三色菫(パンジー)を菫だと思っていたから、ちょっとよくわからなかったんだな。「三色すみれ」の桜田淳子のイメージが強い。

菫で一句。

すみっこに小さき人の日永かな

小さき人だと季語にならないので「日永」を入れた。安直か?漱石の本歌(句)取りをやりたかっただけなんだが。

『源氏物語』和歌


いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おき添ふる雲の上人

紫式部『源氏物語』「桐壺」

『源氏物語』は歌物語というだけあって、和歌が重要な意味を持つ。橋本治によれば『源氏物語』における和歌は、この時代にあった(今でも天皇にはあるのか?)身分制を超えて身分の低い者から上位の者(その最高位が天皇だが)へと意志を伝える手段として和歌が用いられた。

「桐壺」に詠われてた和歌は、「桐壺帝」の更衣になった光源氏の母が宮廷内のイジメにあって亡くなり亡骸となって桐壺の更衣の母のところに戻ってくる。その侍従(帝の使い)に文と共に和歌を託したのが以上の歌である。

「雲の上人」は帝や殿上人を指す。浅茅生は母上が住んでいる荒れた屋敷で、「いとどしく」虫が鳴いているのである。侍女の涙も露のように消えてしまう(露は宮廷暮らしの幻想でもあり、その涙であろう)。それは母上の姿であり、持って行き場のない母の感情を伝えている。

模範五首

今日も穂村弘X山田航『世界中が夕焼け』から穂村弘の短歌五首。

氷からまみは生まれた。先生の星、すごく速く回るのね、大すき。  『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』(2001)
冷蔵庫が息づく夜にお互いの本のページがめくられる音  『ラインマーカーズ』(2003)
メガネドラッグで抱きあえば硝子扉の外はかがやく風の屍
高橋源一郎『日本文学盛衰史』(2001)
夏空の飛び込み台に立つひとの膝には永遠(えいえん)のカサブタありき  『ラインマーカーズ』(2003)
バービーかリカちゃんだろう鍵穴にあたまから突き刺さってるのは  『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』

「手紙魔まみ」は穂村弘の一連の短歌に出てくる架空の人物であるが、穂村弘のラジオ番組の短歌教室に短歌を送り続けた読者がモデル(山田航は、雪舟えまと特定する)となっていた。ただこれはフィクションなんで作者はここでの先生は精神科医と設定している。山田航の読みも穂村弘と断定しないでいるが、作者の分身であると断定していいと思う。
この歌だけでなく、歌集が物語的なフィクション短歌なので、その前にある短歌を受けているという。

すぐ花を殺す左手 君なんて元からいないと先生は言う  吉岡太朗

吉岡太朗も元からいないと言えばいないのだが、そう登場自分物が作品の登場人物に虚構性を明らかにするメタフィクション短歌なのだろう。ただ吉岡太朗はまみのライバルであり恋人未満友だち以上の存在であろう。「先生の星」は内宇宙だろう。脳内フィクション。
カップルの相聞歌という。孤独の歌だと思っていたが。「お互いの」があった。このへんが上手いのか?でも誰かがいるのに違う本を読んでいて気にならないのか?自意識が強すぎるのか?本を読んでいるフリをしていると考えられないか?そうなると幸福の文化系カップルじゃなくて、崩壊まじかの文化系カップルになってしまうな。
またもや石川啄木偽歌。「メガネドラッ/ グで抱き合えば」という句跨りだという。葛原妙子風かな。「硝子扉」とか。「かがやく風」とか啄木風じゃない気がする。啄木はもっと貧乏。メガネドラッグに入ったからか。でもその描写ももう少し貧しく描いて欲しかったかも。穂村弘の啄木像は閉塞感の比喩だという。本人は、啄木像は意識してないという。音韻的に「メガネドラッグ」「硝子扉(ど)」「かがやく」のガとドとラの響き合いとか。これも葛原妙子のような気がする。
穂村弘は夏の歌人なのだと思う。夏の情景がヴィジュアル的に素晴らしいのだが一箇所欠損部があるのがポイントか。この場合「カサブタ」を見てしまう他者性なのか?「ありき」と文語表現も他者性なのか。「永遠」にカサブタのように振り仮名を入れているところがポイントだと本人の弁。深い。
ありきたりな狂気性を感じるのだがこれはまみの作中主体だという。普通鍵穴には人形なんか入らないがギャグ漫画的なんだろう。バービーをデザインした人はミサイルをデザインした人でそのイメージとか。頭を突っ込んでいるとバービーだかリカちゃんだかわからない(リカちゃんはバービーのパクリだから)。そこまではなかなか読めない。面白いけど。批評以上の面白さが自説では必要なんだな。

俳句レッスン

今日も堀本裕樹『十七音の海』から十首。

さやけくて妻ともしらずすれちがふ  西垣脩(おさむ)
虫の声月よりこぼれ地に満ちぬ  冨安風生
まさをなる空よりしだれざくらかな  富安風生
色鳥や書斎は書物ちらかして  山口青邨
十六夜の天渡りゆく櫓音かな  河原枇杷男
渋柿の如きものにては候へど  松根東洋城
うつくしきあぎととあへり能登時雨  飴山実
冬蜂の死にどころなく歩きけり  村上鬼城
山眠るまばゆき鳥をはなちては  山田みづえ
地の涯に倖せありと来しが雪  細谷源二

「さやけし」が秋の季語だという。こういう形容詞的な季語はカッコいいな。でも古語だから文語使用がベターなんだろうな?ただ俳句のセオリーは形容詞はなるべく使わず表現するというのがあるようだ。でも「さやけし」は使いたくなる形容詞だ。春の形容詞ないのか?
「虫の声」と「しだれざくら」の句両方とも空からを見上げた句。これは見事だった。
色鳥は秋に渡ってくる色の美しい鳥だとか。
それだけだな。

「渋柿」の俳句は自身の俳句を「渋柿」に譬えた句だそうだ。わからんかった。謙遜というが「渋柿」だというのは安易に齧ると渋みがあるぞの警句なのでは?
確かに能登半島は時雨いそうだ。
鬼城のこの句は好きだな。「蜂の武蔵は死んだのさ」を想い出す。冬の俳句だけど。

「山眠る」なのに鳴く鳥は放している情景なこと。その見事さか。「山笑う」「山滴(した)る」「山粧う」はそれぞれの季節で同じことが出来るな。

山笑う日本狼ひとり啼く
山笑う虎の遠吠え詩人なり

「倖せ」は「幸せ」と意味が微妙に違うらしい。

映画

今日は『小さき麦の花』。

風薫るさやけき麦の
荒地にて
ロバと夫婦と露消えた朝


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