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行く秋をサルベージせよ投壜通信

再開発でビルはさかんに建てられるのだが、店じまいする店も多く、映画館に行く角にある金物屋?が無くなっていた。コロナ化でだいぶ売上が落ちていたというのだが。そう言えば近くにコーヒー豆を売る店がオープンしたけど、日、月と二日休みになっていた。張り紙もないし。最近インスタントばかりだから、たまには珈琲豆を買ってみようかと思っていたのに。

エドガー・アラン・ポーの作品に『壜のなかの手記』という作品があるのだが、難破船から壜に入れた手紙を海に投げ出すという作品。そのことから「投壜通信」という言葉が出来たのかもしれない。

「投壜通信」で喩えれるのはネットを海に例えてそこで毎日投稿されるSNSでもホームページでも、読み手を求めて投稿するのだが、いつしかその主が消えても投稿した手記だけは残っているという、例えばnoteでも一年前の記事だったらまだ主は生存しているのかもしれないが、2年以上前のものだとどうなんだろうという。そういうネットのゴースト記事は、海洋汚染のネット・ゴーストという言葉があるのを知ったのだが、かなりの負担になるので削除する傾向があるのか?そういう話以前の、もし自分が突然死したらこの記事はどうなるのかとか、ゴーストネットの中で議論がされているのだとか、この手の話は興味深い。

短歌や俳句などの短詩やつぶやきは、藻屑の山となってネットの海を徘徊するのである。そんなことを考えていたのは、過去の詩人もそうであるという。細見和之『「投壜通信」の詩人たち――〈詩の危機〉からホロコーストへ』が面白い。

それでも今日の一句。

行く秋やサルベージせよ投壜通信

字余りだった。字余りがどこまでも海に漂う感じでいいのかも。

ポーに対する興味は『アッシャー家の崩壊』がNetflixドラマでやっていたのを一話だけ見たが、まだよくわからんな。

短編よりも詩に対する興味から、ポーが評価されたのもフランス詩人たちによってでボードレールやマラルメがポーの詩を翻訳したのだが、しかしエリオットに言わせるとフランス人が英語詩をネイティブより理解できるはずはないといい、ポーごときの詩人はと言っていたという。これは翻訳の問題も含んでいて、例えばベンヤミンがフランス文学を翻訳するときに「世界言語」というものを考えていて、例えばポーの詩なら英語という制約(檻)の中で言葉には出来ない精神を言葉として伝えようとするのであって、その時英語という足枷を外したときに詩人の魂が一瞬だけ自由になるのあるというのだが、また翻訳言語によって足枷を付けられていくというような思考。

経験上ポーの詩を例えば私は大江健三郎文学から「アナベル・リー」を知って好きになるのだが、そうして手渡される世界文学としてのポーの詩というもの、それはエリオットがいう原典主義の文学とは違うのである。

ベンヤミンはそういうことを失われた聖書の原典から、本来はそれは神の言葉であったのだが、人間に翻訳され、さらに他言語や下々に者たちの言葉に伝えられてきた文学があるのだという。それはカトリックの教会が独占している教義でもなく、ユダヤ教はトーラという口述伝承が伝えるものだとされていたのだが、その時に人による解釈が入ってくる。そうした魂(アウラ)は複製技術によって、ますます神聖なものを失いつつあるのだが、庶民の祈りは純粋に神との交信を目指しているのだということを、例えば石牟礼道子の作品などを読むと理解出来る。そこから生まれてくる文学の可能性というか、そういうものなんだと思う。

そうやって読書なり映画なりを伝えたい気持ちを「投壜通信」しているのだなと思ったわけなのだった。今日はこの辺で。

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