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切符もレールもそこにある 咳をしても一人

いよいよ追い詰められた夏の宿題というところか。行動に影響してくるのは咳だけなんだが、この咳が厄介者だった。昨日は咳を抑えるために水を呑みすぎてトイレばかり行って映画どころではなかった。座席もなるべくすぐトイレに行けるように端か前じゃないと駄目。今日は一日引きこもり。

図書館。予約本の村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。予約本は借りたときには何で借りたのかよくわからなかったりするのだが、これは最近読んだ清岡卓行『アカシヤの大連』を読んだときに村上春樹の喪失性と似ていると思ったからだ。大連という植民都市。そういう故郷喪失者の悲哀的なものが共通しているのではないか?

村上春樹の小説は、長編だった。久しぶりに読む。『海辺のカフカ』以来だ。『1Q84』の方が後だったのか。あまり人気のある作品ではないのは、地味すぎるのかな。「色彩」というのが色気みたいな多崎つくるの廻りには色の付いた名前が多いので、その部分で色に掛ける人生なのではなかった。そのカウンセラーのような年上の女性が聞き役みたいなまだ100p.ちょいだがかなり好きかもしれない。無理にセックスアピールのある女たちも登場してこないのが好感持てる。カウンセラー役の年上の女性はそういうタイプだけどそれはメインではない。

高校時代に仲良し五人組でグループ交際のような感じだったのだが、高校を卒業するとそういう関係も崩れて、大学で親友を得るのだった。ちょっと漱石の『こころ』っぽいかもしれない。高校時代のプラトニックな感じは男女の性差なく同類としてつるんでいた時代なのか。そういう体験はあった。性的になるのは、その関係が壊れたときで、大学生にもなって友だちも彼女も作らないで高校の同級生ばかり求める同窓会男みたいなのに他のメンバーは嫌気がさしたのだと思う。それは地元でそれぞれ別の関係も出来たのに多崎つくるはそれが出来ないままいつまでも過去の囚われている男だった。

田崎つくるの駅好きはいいかもしれない。鉄道オタでもなくただ駅が好きなのは、それがターミナルであり人々が行き交う場所だからだ。漱石で『坊っちゃん』の最後が「街鉄」という技術者に転身したのと似ているのかもしれない。

村上春樹が上手いと思うのは引用の仕方かな。

枠に対する敬意と憎悪。人生において重要なものごとというのは常に二義的なものです。僕に言えるのはそれくらいです

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

ヴォルテールの引用だと思うのだがその引用本をだして来ないで親友の灰田文紹(ふみあき)に語らせる。かれは哲学やら読書好きの孤独な青年だ。かれが田崎つくるの精神的な支柱となるのか。その彼は自殺しそうな雰囲気を持っているな。ヴォルテールの精神論というような。全体的には村上春樹が書いた青春小説なのだが、灰田文紹との対話が重要な気がする。その後に灰田の父の一人旅で出会った死と悪魔のピアニストの話。このへんは面白い。最初に登場した五人グループの女子二人も黒と白と名前(そこだけ取り出すと犬みたいだが、白田とか黒田のような、この名前は違うけど)で、白のお嬢さんがリストの「巡礼の年」が好きだったのかな。ベルマンとか、このへんのこだわりも村上春樹っぽい。

悪魔のピアニストのほうはセロニアス・モンクの「ランドミッドナイト
」だった。

『窯変 源氏物語』「浮舟」このへんは橋本治といえどもあまり変化はみられなかった。浮舟の入水まで、浮舟の母親が変に貴族趣味だから、それが娘に影響したのか。この母親は宇治の中姫の境遇を羨んでいるところもあるし、しょせん宮の二号さんなのだと卑下するとこともある。もう一人の娘(受領の娘)と浮舟との扱いの差。今で言う教育ママ的な。だから浮舟が宮にちょっかい出されてそれに答えてしまったのは、おおいなる恥部であったのだ。浮舟が右大臣(薫)の保護を受けながらそれを蔑ろにしたのは大いに恥ずべきことだと思わされいた。入水する道しか残されていないのだ。もう一度「黒の舟唄」を聴きたくなるな。

佐藤信夫『レトリック感覚』。換喩。村上春樹のシロとかクロとかの名前の出し方は換喩的レトリックなんだな。「赤ずきんちゃん」とか「白雪姫」と呼ぶのが換喩表現。このへんのレトリックの使い方も技術だよな。村上春樹の文章の上手さはそういうのがある。へんに精神論の方には行かない。それは藤本和子の翻訳文体の影響だと思うのだが、藤本の本一冊は読まずに返却してしまった。

今日の一句。

切符もレールもそこにある 咳をしても一人

ちょっと長かった。俳句と短歌の中間ぐらいか?


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