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思い出は美しすぎて

『アカシヤの大連』清岡卓行 (講談社文芸文庫 )

美しい港町、アカシヤ香る大連。そこに生れ育った彼は、敗戦とともに、故郷を喪失した。心に巣喰う癒し難い欠落感、平穏の日々の只中で、埋めることのできない空洞。青春、憂鬱、愛、死。果てない郷愁を籠めて、青春の大連を清冽に描く、芥川賞受賞の表題作。ほかに『朝の悲しみ』『初冬の大連』『中山広場』『サハロフ幻想』『大連の海辺で』の、全6編を収録。

「朝の悲しみ」。妻の死から始まる私小説。植民都市である中国の大連出身である主人公の身の振り方。故郷を喪失してしまう根無し草という。それが妻の死と重なって想起されていく。妻と生きていた時代は幻想の大連だった。文学の在り方としては、喪失した世界、それを再現させる、愛だよなというところか。しかし、他の女性への愛欲は止まらない。幻想と現実の間の朝の夢現。その妻との出会いはアカシヤの花が咲き乱れる植民都市大連であった。「アカシヤの大連」という題名は、大連のアカシヤはニセアカシヤが咲き乱れる大連のノスタルジー。アカシヤの偽物としてそう呼ばれているが作家にとってはそのニセものというほうが本物っぽく美しいと思うのだった。それは大連という記憶は中国人が感じる故郷とは別の植民地だからだろうか?そのニセが本物よりも美しいのは喪失した悲しみを含むからだ。二度と蘇りはしない世界。が妻の死と共に呼び覚まされる。

その大連を描いて芥川賞受賞後の大連再訪問は、中国と仲が良かった時代というか、まだ中国が日本から学ぼうとする中にあった時代で今ではそういうこともないだろうと思うのだ。それも懐かしい感じがしてしまうのは、まだ中国が経済大国になる以前の話で、やたら大連と友好都市を結ぼうとした姿からも両国の関係性が良かった時代かもしれない。大連がロシアが南下政策のためにパリをモデルとし、その途上での日本侵略、そして中国の経済発展(1970年代だが鄧小平の経済政策の転換期か)という姿をまざまざと見せつけられる(上海に対するノスタルジーと似ているのかもしれない)。詩人の創作の円の例え、ヨーロッパ人は大きな円(フランスか?)をその内側から意識的に円を広げていくが東洋人は無意識的に広げるという。円の話はパリの凱旋門広場の放射状に道路をロシアが真似て作ったとされる大連の広場(サンクトペテルブルクもパリを真似た人工都市だった)。それはロシアと日本の都市化の違いとして、大連という人工都市の変化を読む(日本は和洋折衷という意識的意思が存在するのはなかった。それが日本のモダニズムになっていく)また。この作品も無意識的な深層を訪ねていく小説になっていた(散文詩に近い私小説か、内向の世代という感じか?)。その人工美がニセという虚構の世界に通じていく世界は村上春樹の文学と繋がっていく(レビューでそういう指摘がありなるほどと思った)。

確かに故郷喪失者の根無し草の作家と幽霊(この小説の場合妻であるのだが、それは土地への幻想)を訪ねていく物語になっていた。村上春樹の小説が中国で人気になったのもそういう喪失者の物語としてであった。


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