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稲重ね稲刈り機ゆく遠い雲

稲刈り。休みでも働かねばならない農家の人と年中無職で写真を撮る人。何か一句出来そうだが。

稲刈りや一人者には遠い雲

写真俳句はけっこう作っているのに句会での写真俳句はぺけだった。感情移入出来なかったのだ。どこに視点を置いていいのかわからなく。それで誘われるままにカラオケの看板に注目して作ったのが

カラオケで送りオオカミ月夜かな

見事に撃沈。反省としては昼間だったこと。句がネガティブ過ぎた。俗な句だった。聖なる雰囲気がなかった。個人的すぎた。トップだったのは天候と日傘を詠んだ句で、それは天=聖なるもの、日傘=自己の小ささという対になっていたのだ。他に日傘が孤独というような。雨が降っていて周りは雨傘なのに自分だけ日傘であるという。そこまで鑑賞できるのは本当に凄いと思うのだが、その方法がわからない。オオカミと月で聖性は出しているのだが、それは性性だった。この時期オオカミに憑かれていたんだよな。あと月か。月とオオカミは付きすぎなのかもしれない。

稲刈りの夫婦眺めて遠い雲

こっちの方がいいのか?天の聖性。

稲刈りの耕運機はゆく遠い雲

耕運機は耕すほうか?稲刈り機でいいのか?

稲重ね稲刈り機ゆく遠い雲

日記は自由なのがいい。突然だけど。何を書いても日記になるから。それで一番良かったのが、

秋風に揺れる女のほつれ髪

これが4点だから、まあまあか?最高は7点だから。女性に受けなかったのが敗因だろう。ただこっちの方が作中主体がはっきり出ている。それは短歌的なんだろうと思う。そういう欲望を消していくのが蕉風か?

ここから山本健吉『俳句とは何か?』を読みながら蕉風について書いたのだが長すぎてカット!っていうか「シン・俳句レッスンに移動」。

メシを食べた。ちょっと台所がひっちゃかめっちゃかになってしまった。卵を床に落したのが今日の敗因。

卵墜ちきみは去りゆく床の上

こんなことばかりやっている。読書からか。昨日もあまり読書は出来なかったのだが、『古典詩歌入門』で躓いて、というかこの本が漢詩、和歌、俳句の影響関係について述べているのでまとめにくいのだった。『中国詩史』も読まなくてはとかになって。それで俳句の方にチェンジしたのかな。一冊に集中出来ないので困る。

気晴らしと読んでいるライナー・シュタッハ『この人、カフカ?』は面白い。カフカがカンニングしたとか怒ったとかのエピソード集。それが文学論とか役にたつわけでもないが「カフカ論」だったら役にたつかもしれないけど、そうだ、ブランショ『カフカ論』は素晴らしので、それでブランショもカフカも今まで以上に好きになった推し本です。

今日は脇道ばっかだな。読書はそのぐらいで映画を観たくなって、アウシュヴィッツもの。映画ではなくドキュメンタリーだったのだが、そのBGMがベト7だった。先日観たナチスものもベト7だったのだが、もうベト7ナチスの音楽と条件付されているかもしれない。

告別式の音楽だよな。それをAmazon Musicで聴いていたらいつの間にか寝てしまった。そんぐらいか?

そろそろ風呂に入ってジャズトゥナイトを聴きたい気分。


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