シン・短歌レッス57
今日の一首「うたの日」
お題は回文だった。回文のコトバだけ入れれば良かったのかもしれないが。短歌で挑戦してみた。二句と三句が字足らずになったが、リフレインで韻律は保っていると思う。それに火事なんだから多少舌足らずになるのだし。
やっぱ♪7止まりだった。ここまで頑張っているのにここは努力が認めれない。♪7というのが評価なんだろうけど(前回どんまいに比べれば進歩だ。(「音の日」ぐらいかと思っていたが)他のうたは回文にもなってない。新聞紙で出すのは安易すぎるのに評価される。そういうことなのだ。ただコメントが付いたことは素直に喜ぶべきかもしれない。
在原業平の和歌
この歌は、「新古今集」の面々に愛唱された和歌だという。「月」だけど「春」という俳句ならけしからんとなる歌だがそういうことなんだよな。「月」も「春」も例えで「我が身」を変化を言い得たもの。変化したのは相手の恋心で自分だけが変化しないという歌なのだが。ほんとうはそういう時間の変化はあるはずなのに、歌という永遠性の中に言霊として詠まれているからだ。『古今集・恋』の歌だから人々によって繰り返されるごとに不変性を露わにする歌だった。
『伊勢物語 四段』の二条后高子との禁じられた恋の歌。『伊勢物語』は藤原定家も本歌取りするぐらいの文学だった。ただ業平の歌は物語にせずとも独立した和歌の世界を形作っているというのは、この本の表紙のコトバ。
『在原業平』中野方子 (コレクション日本歌人選)は一首批評でそれぞれの歌人についての和歌が詳しく書かれているので入門書にはいい。すでに4冊目だった。
藤原定家の和歌
桂川の鵜飼の情景だが、夜の漁なのか?いや、漁そのものが闇ということなのだろう。「ひさかたの」は本歌取りで伊勢の光の歌だ。それを逆転させてみせたのだった。
「ひさかたの」は光にまつわる枕詞でここでは月を表すと共に本歌では桂川ということだった。ということは夜なのだが、鵜飼では月の明るささえも邪魔であるという。だから月が影る闇を待つのだった。
言うまでもなく本歌は人麻呂の『百人一首』であった。
『百人一首』が本歌取りのサンドバッグという説はあながち嘘でもあるまい。あまりにも定家の無謀というべきな挑戦である。
定家の歌は霜が付くのだから冬の戸外だ。ホームレスと言ってもいいかもしれない。月影は死の匂いさえ漂ってくる。
ちなみに定家の歌は負けであった。それでも定家は自分の歌に確信を持っていた。
後鳥羽上皇への言祝いの歌なのだが、今の我々にむけられているようにさえ読める。歌道を信じて守っていけば住吉大社の恩恵もあるだろうという。和歌の神でもあるという。本歌は『栄花物語・松のしづえ』。
本歌。
「こがらしの森」は駿河の歌枕。両方とも恋歌だが、「木枯らし」が恋の終わり、「焦がる」との掛詞になっている。秋の色の紅葉は鮮やかよりはすでに枯れ落ちそうな感じか。ただ定家の歌いは結句で「下露」となっている。それは「白露」とのことで、赤と白の対比する世界の幻想性は循環構造的に初句「消えわびぬ」に掛かっている。
本歌。
定家の和歌を一首づつ見ていくと時間がかかって仕方ないな。もう何日やっているのだろう。定家の歌は『源氏物語』の光源氏なりきっての歌なのだが、須磨の場面そのままではなく光源氏の須磨に向かう旅の途中としている。この歌は、「三体和歌」という後鳥羽院の企画で歌を三種類に意識的に分けて詠む試みで、これは「艶」という様態なのだという。
都に残してきた紫上を思いわずらって眠れない旅姿の光源氏の悶え歌なのか。今日はここまで。
尾崎放哉の句
山頭火ばかりだと息苦しく感じるので尾崎放哉を間に読むことにした。テキストは『尾崎放哉句集』(春陽堂・放哉文庫)
一句批評という形ではないので、一気に十句書き出す。
須磨寺の寺男となったときの句。たいした句でもなさそうだけど雨の降る日の気持ちを素直に詠んだものだろうか?十句重ねると散文のエッセイのような気がする。すべて同じ日ではないだろけど。今日は朝から雨だった。真似して自由律をいくつか。
エッセイだな。
映画短歌
『アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』
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