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シン・大江健三郎三部作

『さようなら、私の本よ!』大江健三郎

絶望からはじまる希望
国家の巨大暴力に対抗するため、個の単位の暴力装置を作る繁と、人類の崩れの「徴候」を書きとめる古義人――「おかしな二人組(スウード・カップル)」は静かに立ち向かう。

●大江氏はおのが本能を制御しつつも、その馬鹿力を解き放つために小説を書く。その小説は社会に仕掛けられた爆弾となる。(島田雅彦氏・朝日新聞)
●戦後60年、三島の予言した空虚が蔓延し、テロへの不安が日常化している今、敢えて混沌に立ち向かう<愚行>が書かれたことの意味は大きい。(山内則史氏・読売新聞)
●これは大江文学の見事な総決算であるとともに、ひょっとしたら新たな始まりを予感させるものなのかもしれない。(沼野充義氏・東京新聞)

『大江健三郎全小説15』で読んだのだが、とりあえず『さよなら、私の本よ!』を読んだので感想を。

大江健三郎の「晩年の仕事」はサイードの本の示唆によって芸術家が晩年に自身の作品をリライト(書き直し)していく。

エドワード・サイード『晩年のスタイル』

工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000358068


T.S.エリオットの詩「四つの四重奏曲」の詩のモチーフを小題として、エピグラフにその老人の詩から、文学作品のリリーディングとして「ドン・キホーテ」、「悪霊」、ベケットから三島由紀夫の自決と別の可能性について(レム『ソラリス』まで出てくる)幅広くパロディとして論じていくのでわかりにくいところがある。

まず『ドン・キホーテ』がそれまでの「騎士道物語」に取り憑かれて現実とフィクションの見境がつかなくなった者の話で、前作『憂い顔の童子』ではその物語をパロディ化していたのである。「ドン・キホーテ」はサンチョ・パンサから「憂い顔の騎士」と名付けられる。それは仮面を脱ぐと傷ついた老人の顔を隠しているからだった。最近見た『シン・仮面ライダー』も「憂いの顔の騎士」の物語だった。

庵野秀明も大江健三郎も過去の作品をリリーディングして、自身の作品をリライトしているのだ。そういうことで言えば「晩年の仕事」の大江健三郎は、「シン・大江健三郎」と言えるかもしれない。

この「おかしな二人組」三部作が、ベケット『名づけえぬもの』からで、これはベケットの後期三部作となっている。大江健三郎の難解さはそういう文学の読み(批評)が重要になってくるのだが、そういうのはけっこうハッタリの部分があると思う。現代文学やってます的な。本当はそういう批評的なメタフィクションなのだが、それが大江作品の分かりにくさになっていると思う。

それは庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』にも言える。TV放映された『新世紀エヴァンゲリオン』の過剰な解釈があふれていたのだ。それはオープニングの生命の樹からのカバラ解釈とか、世紀末が黙示録文学のように読まれ、SFファンならディックの後期作品の現実へのヴァーチャルの侵食とか。実際に大江の作品大江健三郎の小説が書かれたのはオウム事件以降だから、似たところがあって預言的な過剰な解釈を引き出す小説だというのはエヴァに似ている。

『燃え上がる緑の木』はオウム真理教を予言していたとか。

重要なのはドストエフスキー『悪霊』とセリーヌ『夜の果てへの旅』だった。「ロバンソンの小説」と言われるのがセリーヌの『夜の果てへの旅』なのだが、最初「ロビンソン・クルーソ」かと思っていた。たぶん、それもイメージとしてはあるのだと思う。作家が軟禁状態にされるのは孤島みたいな作家の軽井沢の別荘なのだ。それは伊丹十三『静かな生活』で出てきた軽井沢の別荘ではないかと思う。

映画『静かな生活』のリライトする描写があるが伊丹十三の作品とは違ったストーリーになっていた。それは大江健三郎がリライトとして書き直した『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』に寄せているからだ。そのように新たに自己批評された作品を別の作品として書き換えていくのが「晩年の仕事」なのだ。

そしてこの作品の根本にある問題は『セブンティーン』で政治小説(一時発禁処分までされた)を書いてしまったことが作家の本意として受け取られてしまうのを自己批評しながらリライトしていくというような作品なのである。

それは三島由紀夫がその作品を読んで大江健三郎よりも『セブンティーン』の主人公に共感して、手紙を書いてきたという(たぶん虚構だと思うがどうなんだろう。手紙は捨てたと古義人がいう)三島由紀夫問題を自身の問題として、自決しなかった三島由紀夫のテロリズムについて考えていく(もちろんそれは小説内のことである)。

その手がかりとなるのがドストエフスキー『悪霊』の政府転覆の企てをパロディー化しているのである。そこでキリーロフ=椿繁という「おかしな二人組」の老人のもう一方の登場人物なのだ。彼が目録のは小説を書けなくなった古義人にセリーヌ『夜の果てへの旅』の二人組になってその政府転覆(テロ小説)のアイデア(それは実際に椿繁のテロ行為の書記係という古義人の役割なのだが)を持ちかける。

その中でメインストーリーと枝葉的な過去の文学作品のリリーディングということをしながら自身の作品をリライトしていくメタフィクションなのだ(こう書きながらかなり複雑な構造なのがわかると思う)。

普通作家は知らずの内に過去の文学作品からインスパイアーされて自身の作品を書いていくのだが、それを明らかにした小説と言えるかもしれない。なんでそんな面倒なことをするのかと思うが、それは新しい作家(人)に模範を示す必要があったのではないか。サイードの読みから、「晩年の仕事」するという作業を通じて、読書の楽しみとその創作過程を伝えたかったのではないか(大江健三郎の校正作業やらそれにまつわる資料館の構想もあるという)。

椿繁の大きな主張の一つに核保有国が核を放棄せずに持ち続ける中で何ができるだろうか?という問いだった。彼はテロ行為を夢見たのだが、古義人はそれを夢として描くことで「ドン・キホーテ」と「おかしな二人組」のフィクションを創作したのだった。それが死者と生者をつなぐ自分の役割だと。

「さよなら、わたしの本よ!」というタイトルはナボコフがロシアから亡命するときに言った言葉で、自分は死んでしまうかもしれないが本だけは残って後世に語り継がれるだろうという意味で、最初は自分の本を捨てることだと思っていたが、過去の文芸作品をも含めて読み直して語り直していくということだった。

それが「晩年の仕事」として作者が後世に残せるバトン(本)なのだ。あとテロ問題はエドワード・サイードの9.11についてのコメントに対しての共感もあったのかもしれない(サイードとは9.11テロのその後について往復書簡でやり取りがあったと思う)。それが「おかしな二人組」でのもう一人の相棒として椿繁の夢想する世界だったのだろう。







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