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作家は「総毛立ちつ身まかりつ」のトラウマをいかに克服したか?

『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』大江健三郎

かつてチャイルド・ポルノグラフィ疑惑を招いて消えていった一本の映画企画があった。その仲間と美しき国際派女優が30年を経て再び、私の前に現れた。人生の最後に賭ける「おかしな老人」たちの新たなもくろみとは?ポオの美しい詩篇、枕草子、農民蜂起の伝承が破天荒なドラマを彩る、大江健三郎「後期の仕事」の白眉。

白い紫陽花を「アナベル」ということから、次の大江健三郎はこれを読んでみようということになった。そこからポーの詩に「アナベル・リイ」に出会い、この題名にもなった日夏耿之介の翻訳は見つからなかったけど、大江健三郎の著作から詩を理解するというのは『燃え上がる緑の木』のイエイツでも体験したことで、詩の雰囲気を物語の中で感じられるのが面白い。日夏耿之介の翻訳詩はポーの原詩とは違うようなのだが、クラシックの演奏家の解釈みたいなものか(そう言えばこの物語の映画では、ベートヴェン最後のソナタ・第二楽章はグルダの初期の演奏がBGMになっている)。

アナベルもアメリカ・アジサイという改良種だが、大江健三郎のイメージはアナベルよりは「ノリウツギ」ではないかと、思うのだ。それは作家が庭の薔薇よりも好きだという日本に古来から咲く清楚な白い花だ。ネットで調べたらサクラのイメージがあった。

自分も散歩から始まりふと目に止めた花からコトバが広がり、夢のような小説に出会えた。

物語的にはポーの詩はナボコフ『ロリータ』へと接木されるのだが、その接木も「コトバ」の多様性ということで、アナベル・リー(Annabel lee)という音韻が、ロリータ(Lo-lee-ta)の音韻を導いていくという。そこからナボコフはポーの詩から別の物語の妖精の花を咲かせたのであるが、大江健三郎は姥桜(サクラなんだけど)なのである。

しかしその姥桜も往年の国際派女優となってみればイメージが違う。そして彼女の幼年期のトラウマ(幻想)として、アメリカ占領事の苦い体験があったのだ(それは日本の歴史としての、例えば大江健三郎が描いた『沖縄ノート』の聞き書きとも繋がっていく(工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』では裁判で映画が中止にならざる得なかったのは『沖縄ノート』の裁判を反映しているという)。それがナボコフ『ロリータ』と繋がっていくのだが、描かれているのはそういうチャイルド・ポルノというサクラの戦後の辛い体験であった。

その後に女優として成功を掴んだ女性がトラウマを乗り越えようと映画を企画するのは、大江健三郎のメイスケさんの生まれ変わりの母親の話から拡充していく物語となっていく(それはすでに『同時代ゲーム』や『M/Tと森のフシギの物語』の語り直しとして、この小説では取り込まれている)。

つまりこれが書かれたのが2007年の晩年の仕事での中でサイードと共に伊丹十三の死についても語られるのだ(そうした大江健三郎自身の乗り越えの物語でもある)。そして、それから30年前の大江健三郎が新進作家としてデビューして売れっ子になる70年代の記憶として架空の映画製作が流れた話があり、さらに終章では架空の映画は小説として完成させる。

それとこれは伊丹十三への追悼の作品でもあるのだろうとも思えるのだ。二人の映画作りをイメージして最後の映画はフィクションとして書かれた。ラウリーの映画シナリオの話から接木された架空の映画制作の話。

それはフィッツジェラルド『夜はやさし』のシナリオを任されたマルカム・ラウリーが架空の映画小説としてシナリオを完成させた、それはラウリーが「晩年の仕事」として、彼の最高傑作としてリライトしていくのが、この小説のメタフィクション性なのだ。マルカム・ラウリーはアルコール依存症として同じアルコール依存症であったフィツジェラルドの乗り越えのための小説の映画化という困難な仕事を受け入れる。

そして彼等はそのトラウマを克服していく。最初はクライト『ミヒャエル・コールハースの運命』という作品の映画化は四国での伝承の村の一揆物語から接木されたものになり、さらにラウリーの『夜はやさしい』のシナリオとして完成された架空の映画小説となっていく。

その四国での伝承された戦後に演じられた村演劇はそうした蹂躙された者たちの声として、サクラが演じる『メイスケ母』の物語として再生されるのである。サイードの「晩年の仕事」の一つとして乗り越えなければならなかった大江健三郎自身の物語でもある。


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