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胞子としてのフシギの物語

『同時代ゲーム』

『M/Tと森のフシギの物語』

『M/Tと森のフシギの物語』もそれほど優しい小説ではない。『同時代ゲーム』より整理されているとはいえ登場人物の特異さもあって複雑。序章で大筋を触れているが、Mはmatrianrch(女族長)の意でTはtrickster(トリックスター)の意だと解説している。Mはそのほかにマザーの意味もあるような、この物語では重要なのは昔話の語り手としての祖母と母、さらに「おしこめ(醜女)」とトリックスターとしては語り手のKと壊す人、さらに亀井銘助、そして音楽家としての光(作家の息子)がいる。

物語構造としてペアで一組の話がそれぞれ展開されるのだが、中心となるのは壊す人とおしこめでそれぞれ一章を物語として描かれている。そして「自由時代の終わり」と「五十日戦争」で亀井銘助と生まれ変わりの童子が大日本帝国との紛争が語られていく。そして最終章で「森のフシギ」の音楽で、現代に戻り母と息子の光の最後のエピソードとして伝承されていく「森のフシギ」物語として完結を見るのである。
もっともこの『M/Tと森のフシギの物語』は『同時代ゲーム』の語り直し(リライト)であるならば、この先の作品もさらに語り直される大江健三郎の文学なのだ。

それはサーガという手法。フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」をモデルとしている(大江健三郎はフォークナーの息子たちと自らを呼ぶ)ように四国の森サーガなのだ。

内容はほとんど『同時代ゲーム』と同じだが、劇中劇というようなメタフィクション要素が少なくなって読みやすくなっているかもしれない。私は二回同じ話を読むのは苦労させられたが、またより興味深く内容も変わっているところもある。例えば壊す人が率いた若者の乱暴者(アナーキーな者)は海賊として沖縄まで行って戻ってくるのである。それは沖縄の海上の道が四国の森の道と繋がっていく開かれていく世界があるからだ。

壊すに人も外部の人ならば、語り手のKも森を出て海外に出ていく。そして、その繋がりが日本文学だけではなく世界文学として影響を与えているからノーベル文学賞に選ばれたのだろう。その大きな一冊の本がこの本だった。ほとんど『同時代ゲーム』と変わらない内容だが最終章は次世代の息子の光に手渡された形になっている。

そして、そのエピソードとして、母の最後の日々と光との交流があるのだ。その章は、『個人的な体験』のリライトする部分や『治療塔』、さらに『新しい人よ、目覚めよ』とも響き合っているように思える。大江健三郎の文学が一冊の本の中で閉じられる物語でもなく、新たな可能性の物語を開くものとして、「森」の物語を伝承していきながら「フシギ」という魂のようなものに出会い続けるのだ。それは大きな露のような世界だと思う。

そういした大きな胞が世界を写しながら、また種のように弾けて新たな物語に接続していくのだ。それは村上春樹の文学にもあるのかもしれない(大江は森の物語だが春樹は都市の物語として種を受け継いでいるような気がする。育っているかは別だけど)。



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