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日本の終戦80年というけれど

『戦争とは何だろうか 』西谷修(ちくまプリマー新書)

どのように国や国民は戦争に巻き込まれていくのだろうか? 国を守るためなら戦争は「正義」なのか? 戦争とは何かを考える一冊。

昨日(12/04ではなく、12/08でした。)は真珠湾攻撃の日米開戦の日で80年ということでNHKでは特集番組が組まれていた。80年と言っても戦争がなくなったわけではない。日本が仕掛けた戦争国としての終戦から80年ということだ。しかし、湾岸戦争、アフガニスタンの対テロ戦争では米軍の協力体制の元で、戦争参加しているのだ。

それまでの国家間戦争から戦争の形態が変わっているという。大国が核保有することによって、大国同士あるいは核保有国と戦争をすることはお互いの国に取って危険なことになっている。核抑止力が言われるのは、そういう意味で国家間の戦争をしにくくした。

それでも戦争が無くなったわけではなく、国対テロ組織という、あるいはならず者という非対称な国家とテロ組織の戦争が行われているのだが、一向に戦争が収まることはない。テロが何を意味するのか?テロリズム(テロリスト)の略語なのだが、エロやグロというように、なんとなく悪いものという印象でもって、それらの要因がなにかを考えようとしない。テロ=悪という当たり前のように図式が出来ていた。

海外では自爆攻撃はテロリズムというよりカミカゼ・アタックという。ISやイスラム原理派の常套手段だが、彼らは旧日本軍と同じ「美しい国」を侵略者から守ろうとしてやっている。テロリスト集団が生まれたのも戦争だった。それはかつてはアメリカが対ソ連や対共産圏の為に武器供与をして育て上げた武装集団だった。それがイスラム圏で一向に支配を止めないのは、何よりもアメリカだったと彼らが気づいてしまった。

経済市場で軍産複合体は、国家の経済を担っているのがアメリカなのである。あるいはモンサントなどのバイオテクノロジー企業は、自由経済というもとで戦争協力企業として海外進出していく。彼らを守る安全保障というセキュリティ企業や軍隊は、自国民の方向を向いているだろうか?例えば日本の沖縄を見れば明らかなように、彼らは自国民からは恨まれているのだ。それが一部であったとしても。例えばそのセキュリティシステムの中に自国民に仕事を与える。それが内戦の発端ともなるのは、アフガンの失敗で明らかだった。

恒常化する非常事態の中でセキュリティシステム内では、安全が確保されたとしても、その外では内戦が繰り広げられる。一般住民は、より暴力の危険にさらされているのだ。テロ組織を撲滅する為に犠牲(誤爆や逮捕)となるこれらの住民はより反感を持ち続けながら家族を喪った者の子供たちはより反米感情が強まる。そんな彼らがテロリストとしてカミカゼ・アッタクをする。

国家間の戦争ではない、非対称の戦争が最初に現れたのはナポレオン戦争のスペイン侵略だという。そのスペインでパルチザンというゲリラ組織が立ち上がったのだという。やがて、それはスペイン市民戦争に受け継がれていく。ファシストは「ゲルニカ」を無差別爆撃したのだ。国の内政干渉が他国によって行われる悲劇は、どちらの正義に関係なく住民を巻き込む。

アメリカがやっていることはそういうことだった。アメリカの自由経済思想が、軍産複合体やバイオテクノロジーを無理強いさせているのは明らかなのである。例えばその覇権争いが中国と行われるにしろ、国家間での戦争はあまりにもリスクが大きすぎて不可能なのだ。それは代理戦争として、例えばシリアのように内戦化していく(ロシアとアメリカの代理戦争化している)。その間隙の中からイスラム原理主義が生まれる。

日本の軍事化は、はっきり言えばアメリカの肩代わりでしかない。あまりにも金がかかりすぎて維持していくのも大変だ(トランプが軍事費の肩代わりを言ってきたり)。

かつてカミカゼ・アタックをアメリカに対して行ってきた日本である。むしろイスラムの気持ちを理解できるのは、彼らなのではないだろうか?と思うのだが、あまりにもアメリカの民主主義に洗脳されてしまったか。それは冗談としても、日本の知恵を役立てるのは軍事大国としてはではなく、平和の使者としての中村哲氏の活動がヒントになるはずである。



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