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歌枕(観光地)巡り的な西行論

『西行』白洲正子 (新潮文庫)

ねがはくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃――23歳で出家し、1190年2月73歳で寂すまで平安末期の動乱の世を生きた西行。その漂泊の足跡を実地にたどりつつ、歌の読み込みに重点を置き、ゆかりの風物風土の中で味わうことによって自ずと浮かび上がってくる西行の人間的真実。待賢門院への思いなど、謎に満ち、伝説化された歌聖の姿に迫り、新たな西行像を追求する。
目次
空になる心
重代の勇士
あこぎの浦
法金剛院にて
嵯峨のあたり
花の寺
吉野山へ
大峯修行
熊野詣
鴫立沢
みちのくの旅
江口の里
町石道を往く
高野往来
讃岐の院
讃岐の旅
讃岐の庵室
二見の浦にて
富士の煙
虚空の如くなる心

後記
西行関係略年表

白洲正子の本を読むのは初めてだった。

白洲次郎の妻なんだ。あまり好きなタイプでもないかもしれない。だから今まで読んでなかったのだな。繋がりが見えない。

まあ、今回は西行ということで。MOA美術館の西行の肖像画が気に入ったようで、思い込みの激しい人なのだと思った。その時点でもう引いてしまうな。   

白洲正子の「西行」は桜の西行に注視するほどに歌枕の西行巡りであるような観光地的になっている感じがする。そこに浪漫主義的な西行の読みがあり目崎徳衛の「西行」と対立する部分ではないのかと思う。

それは「西行」の説話物語から読み取る西行であり、辻邦生『西行花伝』のエッセイ的な浪漫主義性が感じられる西行である(それは作家が形作る西行であって否定できない)。花=桜の西行か、月で読む西行かという違いがあるのかもしれない。月影は虚妄(虚構)である。

吉本隆明の批評とは違う物語的な西行か?


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