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「ストレンジャー(よそ者)」は憩いの場所を求める

『起きられない朝のための短歌入門』我妻 俊樹/平岡 直子【著】

<扱われるテーマ>
「最初の一首」のつくりかた/スランプののりこえかた/連作のつくりかた/歌に使われがちな語彙
推敲のしかた/テーマ詠の難しさ/いい批評とは何か/破調/虚構の歌/口語と文語
わからない歌/歌集をつくること/学生短歌会/新人賞/同人誌と歌集/短歌と夢/詩的飛躍
速い歌と遅い歌/「人生派」と「言葉派」/作中主体とは何か/信頼できない語り手 ほか
「難しいのは、自分の短歌を物足りなく感じはじめたときだ。なにを、どう書くべきなのか。自分の文体とはなんなのか。
ヒントとして、脳をこじあけて強制的にまぶしい光を浴びせてくるような言葉がこの本のなかにひとかけらでもあればいいと思う」
(平岡直子)
「他の入門書を読んでなんだかしっくりこなかったり、短歌で道に迷ってしまったと感じている人がこの本を読んで、なにかしら励まされるところがあったとしたらとてもうれしい」
(我妻俊樹)
起きられない朝のための短歌入門「つくる」
我妻俊樹/ 平岡直子/著『起きられない朝のための短歌入門』から「つくる」。二人の現代短歌の若手が創作のヒントや読み方のヒントを語り合う入門書らしからぬ、入門書。

初心者は入門書の型に囚われてしまうので、少しでもそういうものを解きほぐしたいという感じだろうか。

まず現代短歌の影響を与えた穂村弘の『短歌という爆弾』から「砂時計のくびれ理論」(そこは全然引っ掛からなかった )。短歌にはキーポイントなるコトバ一つを砂時計のくびれにして、時間の流れとして上句と下句によって共感するコトバにしていく。それは情景を心情に共感させることかもしれない。ただ穂村弘はそれが一つのコトバではなくいくつものコトバがあるということだった。

もう一つ短歌の作り方として、まったくの白紙からつくるのではなく本歌取りをしているということだ。それは最初に短歌を作るときに感動した短歌の見様見真似で詠んでいたということなのだ。そこで主題を変えたり、批評性を持ち込んだり、つまり先例の言葉があって自らの言葉が発話できるということだ。本歌取りの手法はプロでは当たり前だった。ただ平岡直子は有名な人の短歌よりも身近な人の短歌を真似ると言っていたのは学生短歌の出身なので、そういう内輪の中で日々切磋琢磨していく感じなのかなと思う。それは一般的にはわかりにくいし、内輪だけの世界だと思うのだが。

起きられない朝のための短歌入門「よむ」

次は「よむ」ほうだった。短歌も読み方がわからないから、ある程度説明してくれればわかるのだが。短歌も批評を書く人と短歌だけを作る人に分業化しているのだという。

塚本邦雄とか穂村弘は両方だけど、そういう高望みはするなということか。でも我妻俊樹も 平岡直子も批評はしているよ。言う事とやっていることが違う。多分だけど男の歌人は批評的で女の歌人は感性的なのではと思うのだ。でも批評的な歌人がいないわけでもなかった。

あと短歌の批評も読むのも型というものがあり、そういうosに則ってやっているから、共感性というものはそういうことが日々バージョンアップされているので、その時の流行りの型とかコトバの共感度とかあるようで、例えばコンピュータゲームは日々進化しているので、その世界のコトバとかが共感性になるということだった。ネットの世界もそうなんだろう。こういうのは無理過ぎるな。内輪時代なんだな。OSが違うとか言われてしまったら返すコトバもない。いまだに昭和のOSなのか?

そう言えばここに上げられている短歌がほとんど理解できない。平岡直子なんて寺山修司が理解できないというのだから、その距離と言ったら。我妻俊樹は寺山修司から入ったらしく、寺山修司は短歌初心者にもわかりやすいのだという。今、コトバだけの短歌でそのコトバの変化が面白いとかリアリズムよりコトバの世界だけで成り立っている短歌が受けているとか。

塚本邦雄のスタイルだと思うが、そのコトバが若者が引っかかるコトバというのがポイントなんだと思う。古いけど「ドラえもん」短歌とか。これは難しい。もう完全に今の短歌がわからないというのは、そういうことだった。

起きられない朝のための短歌入門「ふたたび、つくる」

「ふたたび、つくる」になると短歌新人賞の投稿者レベルの話になっていると思う。あまりにも専門的すぎて理解不能だ。連作投稿の話とかそんなレベルの話だった。

最初の穂村弘の「砂時計理論」だけ理解できたのでいいかなと。ひとつのポイントとなる異質なコトバ(砂時計のくびれのような驚異的なコトバ)として、上句と下句を通して共感させるという。それは世代間での分かる人には分かる的な共感なのかもしれない。さらに最近は批評する人と短歌を作る人と分業体制であるというのだ。この対談では平岡直子は作る人で我妻俊樹は批評家タイプである。対談としては講師役が平岡で聞き役が我妻という役割分担がなされている。

短歌を作る人は批評する人でもあると思っていたのだが、感性のつくる人の時代なのであった。平岡は「持論」「意見」を短歌に持ち込まないという。定形があって、そこで呼吸が出来るという。その定形というのが世代間の枠組みのような気がしてならないのだ。

その定形を疑おうとはしない。むしろ我妻俊樹はその定形から外れてしまう「ストレンジャー(よそ者)」だと言っているのだがここでは平岡の感性に従うしかないようである。一番驚いたのは平岡が寺山修司の歌を理解できないと平然と言ってしまうところだった。

世代間のOSが違うと言ってしまえばそれまでだが、そこが最後の「作中主体」の話になっていくとズレていくような気がするのだ。短歌の世界では「作中主体」が当たり前で、それが短歌の感性というものなのだ。それを疑うということは批評家であって、その枠内で共感を得たい感性は定形を必要とする。定形を崩しながらも時代の定形というような。女子高生の制服の例え話がわかりやすい。制服に憧れるけどその中で着崩していくスタイルなのだという。全く自由な服装は求めない。

それは移民をうけいれられない日本社会のようだと思ってしまった。クラス(階級)化された社会のような気がするのだ(その中での自己顕示欲=承認欲求)。最近のアニメでもネットでも実はこの階級化というのが目につくようになってきている。『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』と言った物語の階級は軍隊を模倣しているのだと思ってしまう。どこか戦争アニメやゲームの世界というのは階級を求めるものかもしれない。


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