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『痴人の愛』は「育成ゲーム」か?

バーナード・ショー『ピグマリオン』(映画『マイ・フェア・レディ』)と読み比べると面白い。15歳のナオミを語り手、河合譲治が心身ともレディにするよう養育(という名の囲い)する。興味深いことに貴婦人として英語を教えるのだが、外国人による英語教師の英会話でナオミは褒められ、だが英文法重視の語り手の教育法との対立、例えばその後の社交ダンスをめぐるエピソードが語っているのはナオミは身体的会得する。語り手の河合譲治は実践での社交ダンスを踊ることが出来ない。


語り手の河合譲治は実践での社交ダンスを踊ることが出来ない。河合譲治は精神と体の二元論で思考するが、ナオミは極めて一元論(身体性の女)なのだ。河合譲治の精神にあるのは、『源氏物語』の「若紫」の世界か?(谷崎は『源氏物語』を現代語訳している。)西欧化された日本の雅を打ち破るあいの子(と呼ばれる)としてのナオミとして読むと興味深い。例えば育成ゲーム的なアンドロイド(人造人間)を作ろうとするがそれは自ら滅ぼすものだった(今読んでいるミシェル・カルージュ『独身者の機械』)。



社交ダンスでの日本の近代化による西欧化批判は芥川も『鹿鳴館』で描いているが、芥川の短編と谷崎の長編(風俗的)の違いを読み比べるのも興味深い。『痴人の愛』の語り手は身体的なあいの子としてのナオミを不浄な女として捉えることしかできない。悪女は慰みものとしての悪酒に喩えられる。それでもナオミの肉体に耽溺してしまう河合譲治なのだ。その逆転劇は見事に描かれるがそれは西欧化を前に滅びていく日本男児の雅の世界、日本の男尊女卑の姿なのだろうか?


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