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過剰な愛の方が好きだった

『シンプルな情熱』アニー エルノー  (翻訳) 堀 茂樹 (ハヤカワepi文庫)

年下男性との愛の体験を赤裸々に綴り衝撃を呼んだ、 ベストセラー小説 「昨年の九月以降わたしは、ある男性を待つこと──彼が電話をかけてくるのを、そして家へ訪ねてくるのを待つこと以外何ひとつしなくなった」離婚後独身でパリに暮らす女性教師が、妻子ある若い東欧の外交官と不倫の関係に。彼だけのことを思い、逢えばどこでも熱く抱擁する。その情熱はロマンチシズムからはほど遠い、激しく単純で肉体的なものだった。自分自身の体験を赤裸々に語り、大反響を呼んだ、衝撃の問題作。

出版社情報

「赤裸々に綴り」は宣伝文句だった。極めて理知的に自己を分析して描いているように思う。ちょうどマルグリット・デュラス『愛人』と逆転させたような愛の形か?それはデュラスが『愛人』として描いたように個人的な物語なのである。しかし、その背景にフランスの植民地と支配と被支配の構造があり、それは国家の問題でもあるが男女間での問題でもあったのだ。それが文学として成り立つ為には愛の物語が必要だったということである。

アニー・エルノーもデュラスと逆の立場で、エリート女性が東欧の階級的に言えば下の男と関係を持つという物語である。ただそこに愛=パッションというキリスト教的受苦の物語を分析的に描き出しているのだ。それは浪漫主義的に描くのではなく、教条的に描かれているのだと思う。それが彼女の階級社会の立ち位置なのだ。ただそのことはこの愛の物語では、パッション(受苦)という形で自己批判的な文学となっているのだ(作家としてか?個人の女としてか?判断するのは読者次第なのか?)。

むしろこの描き方は即物的なヌーボ・ロマンなのかとも思った。アンチ・ロマンと言ったほうがいいのか?感情を出してはいけないのである。それがキリスト教的受苦(パッション)の姿であるならば、自分の身体を自分で鞭打つような苦行僧のような文学であるようにも感じる。なによりも過去の女としての自分を総括する作家としての自分がいるのである。その作家としての自分は『場所』『ある女』で描かれている階級社会の立ち位置である者の姿なのだ。その断絶があるように思える。父との断絶、母との断絶、そして自分の過去との断絶だ。そこまでするのはなんだろうと思ったがキリスト教世界なのかと思った。


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