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文学とは散歩の達人になること

大切なことを忘れてしまった。いつも参加しているオンライン句会がとうに過ぎていた。今月は読書メーターでのオンライン句会があるのでそっちに気を取られていたのだ。2つのことを同時に出来ない、こういうパターンが多いです。

昨日図書館に行ったけど返却も本も借りれなかった。スマホに図書カードを入れていくのだが、他のカードで一杯になるので横浜仕様と町田仕様に分けているのだ。映画のポイントカードも入れ替えり。

そういうわけで町田の図書カードを忘れた。さらに返却本も横浜図書館の本を持ってきてしまった。返却時に気がついて良かったのだが、確認は必要だ。

それで昼から3時ぐらいまで大人しく読書していたのだが、後藤明生の本を読んでいたら、ゴーゴリや荷風などは橋の名前や通りの名前をよく知っていると書いてあり、これは散歩の達人の極意だなと思った。

後藤明生も散歩の達人なのだが、それは道に迷って新たな場所に出会うというもの。それが回り道なりアミダクジ方式なるものを生んでいる。まあ、小説の筋に繋がる話でもあるのだが。

それで図書館の帰りは歩いて帰ることにして、通った街道や橋の名前をインプットして、記述できるようにしようと思ったのだ。もうスマホの地図を見ないで帰れるから、町田は大したことがないのだが横浜は面白いかも。

それで街道と橋の名前を覚えようとメモしたのだ(スマホで写真を撮っただけなんだが)。それで散歩の過程は、町田駅前通りから中央図書館で脇道に入り(この道は不明)、町田街道にぶつかり、そこから成瀬街道に入る。高ヶ坂を下って、恩田川にぶつかる。高瀬橋から下流に下って横浜方面へ。いちいち橋の写真を撮っていたのだが、工事で通行止めの案内図があったので、そこに町田の橋は全部出ていた。

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町田と横浜の境界を通りすぎて、そこからはまたスマホで写真を撮りながら帰った。途中植物も撮りながら。グーグルフォトにはレンズという機能があって、撮った写真の植物の名前がわかるのだ。それが表紙の写真で、ヤマモモかと思ったらイヌマキだった。桃の姿していたから。散歩の達人になるには植物や小動物の名前も知っているのが重要なのは、乗代雄介『旅する練習』に書いてある通りだ。

話が混線する悪い癖である。それでヘトヘトになりながらスーパーで晩飯の材料を買うのも面倒だということになり、サイゼで夕食、休憩。そこで読書しようと『失われた時を求めて』を読んでいたのただが、隣のママ友同士の会話が熱中していて集中できない。その話が現代用語の基礎知識に出てきそうな言葉が多く面白いので聞き耳を立ててしまった。

なんでも学校の不平不満を話していてマウントの取り合いとかいう話だった。それがラインとかメールでもそうなんだそうだ。こんな世界はとてもじゃないが生きていけないと思ったら、『失われた時を求めて』もサロンでのマウントの取り合いの話だと気がついた。

読書は『文学とは何か』で、古典主義的な伝統の中に精神主義的なものを読み取るという、新批評は大岡信なんかもそうなのかもしれないと思って、『萩原朔太郎 』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。朔太郎の場合、和歌の恋の歌の影響が強くそれが叙情詩の出発だということだ。言葉から幻想的世界を広げていく叙情性がその元にあったということ。

それで『文学とは何か』は第二章はフッサールの現象学からハイデガーの実存主義、サルトルの『ぶんがくとは何か』につながっていく。その転換点としてバルトの『テクストの快楽』による読者の発見。著者の原理主義から作品の緻密な解釈論から、読者による「開かれた読書」という流れ。それはテクストに出会いながら異化作用にならされて読書も変わっていくということだ。このへんは納得した。

読者による異化作用による変化ばかりではなく、テクストが他の読書へと開かれていく「読書の快楽」。その双方向の関係性が文芸批評ということなのだ。

どこまで彷徨っているが俳句を諦めたわけでもなかった。

すでに十六夜杯の俳句三句は出来ていた。ただこれは、10月25日まで推敲が必要だった。問題は短歌と川柳がぜんぜん浮かばない。



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