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白昼の青いひまわり夏至の闇

ムクゲ(無窮花)韓国の国花だった。似たような花にふようがあり、中上健次の小説に出てくる夏芙蓉がこの花だと思っていた。白い芙蓉だったと思った。

そうだ。夏芙蓉で思い出したが『百年の孤独』が文庫化されたというのでXで流れていた。単行本は持っているので、また読んでみようかな。池澤夏樹のガイドブックがあるとか。

今更だとは思うが、世界文学の名作とされるので読んでない人は読んだほうがいいと思う。マジックリアリズムと言われた最初の頃のラテンアメリカ文学。同じ頃に出た中上健次『千年の愉楽』の方が凄いと思ったのだが、今読むとまた違うのかもしれない。

そう言えば夏至も過ぎてしまったのだと昨日知った。夏至が好きなんだが、夏至はあまりコトバの響きが良くないので、半夏がいいかな。半夏生は7月1日だし。忘れないようにしよう。夏至の俳句というより、永田和宏の短歌が有名だった。

一日が過ぎれば一日減つてゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ

あと半夏では間章のライナー・ノートに、ジャニスの青い向日葵という文章があった。腿に掘った刺青のことなんだが。あとで本を探してみる。

読書は『源氏物語』のウェイリー版の四巻を読み始めた。宇治十帖に入っているのだが「早蕨」と「宿木」。やっと浮舟が出てくるのだが「早蕨」はその前のコゼリ(中君)の話で「大君」が自殺した後の薫と匂宮の争奪戦があって、匂宮の妻になったのだが、匂宮が夕霧の娘六の君と結婚すると、そっちばかり行くので、都に出てきたことを後悔し始めるのだった。その中で薫がちょっかいを出してくる。もともと大君(アゲマキ)が妹の中君を薫と結婚させようとしたのだが、薫は大君しか目に入らなく、大君が自殺してしまうと匂宮との関係が危うくなってきて中君が痩せて大君に似てきたので中君でもいいかなと思うのだった。このへんの薫の優柔不断さも悲劇の要因なのだが、中君が大君と薫が結ばれて、自分と匂宮と共に都に住んでいたら姉妹水入らずで関係が出来たかもしれないと思うのだが、光源氏一族の男は女は慰み者としか考えてないから、その考えは甘いのだった。浮舟が登場してくるとさっさと浮舟の方に行ってしまうのだから。所詮、薫にとっては大君の身代わりの人形でしかありえないのだった。

『源氏物語』も「オリエンタリズム」で読むとまた違うのだろうか?とサイードの『文化と帝国主義 』を読みたくて図書館で借りられていたので、返却本の中に『パレスチナとは何か』があったので、それを借りて少し読んだ。サイードがスイスのドイツ移民の写真家の写真から文章を書くという変わったスタイルだ。スイスのドイツ移民の写真家というのはユダヤ人ではないのか?と思ったが良くわからない。ただナチス政権の時に亡命したのでエグザイルとしてのサイードと重なる部分があるのだった。故郷離散者としてのパレスチナという視線という本。

あとボブ・ディランの本を借りた。

亡命者の視線といえば昨日見たロウ・イエ監督の映画もそうだった。ただあまり思想性は感じずノスタルジーの映画だと思った。それは酩酊感なのかな、サイードのように醒めている視線じゃないような。結局、「天安門」もセンチメンタルな事件にしか過ぎなかったのかとか。

酩酊と覚醒は今の自分のテーマとなっているのかもしれない。詩作するにも酩酊感よりは覚醒感の方でという思いがあるのだ。今日の一首。

白昼の夏至の最中に月夜かな 宿仮

今日の一首。

君の腿の
青い向日葵
それからが
半夏の時間だと
アイツが言った


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