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絶望した中で新たなものを生み出していく新世代の作家への祈り

『「新しい時代」の文学論: 夏目漱石、大江健三郎、そして3.11後へ 』 奥憲介(NHKブックス 1280)(NHKブックス 1280)

気鋭の批評家が、「一個の生」をキーワードに私たちの生きる態度を問う、渾身の一冊!

「前近代と近代」「戦前と戦後」につづき、3.11の「その前」と「その後」という、第三の時代の?裂け目”を体験した私たち。社会の形が一変した後の「新しい時代」に、人はどう生きていくべきか、文学はいったい何ができるのか。近代化の中で、個であることの宿命的な孤独を自覚したのが夏目漱石であり、戦後日本の中で、数多くの作品を通して個のありようと格闘したのが大江健三郎であった、と著者は言う。個の分断を防ぐために――。漱石、大江をつないで3.11後の時代を文学から見通す。
目次
はじめに 「新しい時代」から「新しい時代」へ
第1部 百年の淋しさ――漱石『こころ』からの呼びかけ
第2部 後れてきた者の遍歴――大江健三郎の戦後
第1章 戦後という「新しい時代」の発見
第2章 六〇年安保と主体回復への葛藤
第3章 戦後の総括の試み
第4章 損なわれた生の救済と再生
第3部「新しい時代」の文学に向けて――3.11の「その後」をどう生きるか
第1章 3.11が生んだ「その後」
第2章 更新していく生と手渡される生
おわりに たったひとつの個の一回限りの生

初めて読む著者。批評家なのか。学年だと3つ下だから分岐点にいる人かもしれない。

第1部 百年の淋しさ――漱石『こころ』からの呼びかけ。

漱石『こころ』の先生の気持ちはかつてはわかったつもりになっていたが、今はまったく反対の思考になっている。「淋しさ」も慣れてしまうんだよな。三角関係の過ちということだが、単に二人より三人の方が楽しかったというだけではないのか?二人という関係は対幻想だが三人になると共同幻想というような。一人だと自意識過剰になるな。一人で「淋しい」という感覚はないのは、今は一人で楽しめるものも沢山あり一人で生活出来る環境も整っているからだと思う。

最終的には人は一人で死んでいくしかないのだから、淋しさというのは贅沢だと思うよ。かつてはそうだったのかもしれないが、時代がお一人様用にできていた。それで今は淋しさよりも虚しさだと思う。虚無感。それは淋しさとはちょっと違うのではないか?

先生の手紙で問いかけられている次世代のメッセージ。

あなたは本当に真面目なんですか
あなたははらの底から真面目なんですか

奥憲介『「新しい時代」の文学論: 夏目漱石、大江健三郎、そして3.11後へ 』

第2部 後れてきた者の遍歴――大江健三郎の戦後
第1章 戦後という「新しい時代」の発見

大江健三郎というより文学者全般に「遅れてきた世代」という思考はあるようだ。漱石から始まって、芥川は文明開化に、太宰は大正浪漫に、戦争を挟んで大江は戦争に、そして村上は60年代に、さらに70年全共闘に、80年バブルに、90年昭和イケイケに、00年はネット世代、それからそれからというように順繰りになっていくと思うのだが、特に戦争(敗戦)という一大事件は大きな変化であった。

ここで大江健三郎の遅れっぷりを短編小説を辿りながら紹介している。ただ大江健三郎は遅れてきた世代だったが「新しい時代」の世代でもあったのだ。それが戦後民主主義だった。その陰に原爆があった。大江健三郎が作家として数々のデモに参加してきたのは「原爆」という何もかも破壊させるイデオロギーがあった。それがアメリカの民主主義の勝利でもあったのだ。
しかしイデオロギーは変わってもかわらないものがあると大江健三郎が信じたものが井伏鱒二『黒い雨』で描かれた自然の力であった。日本が原爆で破壊されても、そこには自然の時間が流れているとする井伏鱒二の思想だった。

もうひとつ大江健三郎の戦後に影響を与えた本はアメリカからもたらされた。それはマークトゥエイン『ハックル・ベリーフィンの冒険』なのだ。

『日常生活者の冒険』、『セブンティーン』『政治少年死す』、『死者の奢り』、『生贄男は必要か』、『人間の羊』の芥川賞を取ったからの後の短編や中編は、戦争に遅れてきた青年として、戦争で死んだ者たちを日本の犠牲者という観点から描くことによって、贖罪としての青年のあり方を現代社会に投げかける。それは右翼左翼の違いを超えて殉死という犠牲的なあり方に美を見出すという、例えば日本の武士道や天皇制の考え方だが、その一方で民主主義と米国戦争の間にある日本人という思想がなし崩し的に、経済発展を良しとする戦後の中にあって「ヒロシマ」「オキナワ」のルポルタージュを通して政治的に実存していくという姿を見せる(サルトルや実存主義の影響か?)

その総決算として、作家として引きこもる大江健三郎の姿と外に出て新たな共同体を作り出す分身として長編小説『万延元年のフットボール』があるがのが、その時期に連合赤軍の事件もあり、大江健三郎はその事件を小説の中に取り込んでいくのだった。それは何が「本当のこと」かわからない社会の若者のあり方として、極端な行動へと歩んでいく者と留まる者の対話的葛藤の小説である。それは大江健三郎文学の一つの方向性を与えた。

その後も同じテーマでリライト(再構築)しながらその時代に沿いながら長編小説を書いていく。その中で『燃え上がる緑の木』は執筆時にオウム真理教事件があったが、作家としては『万延元年のフットボール』のように事件に合わせて改変することはなかったという。そこに大江健三郎の作家としての力量が社会的な事件よりも個人的事件を明らかにする方向性があったという。それは大江健三郎が長編小説を書きながら、障がい者の息子を産んだことによって大きく変化していく他者とのあり方だった。『個人的体験』から『新しい人よ目覚めよ』は共同体の中の個人のあり方を追求していったものかもしれない。その中に文学の中に詩=死を見出していくのだ。死者たちとの対話は『懐かしい人の手紙』まで終わることがなく続くのだ。

その中で父と母のあり方が四国という共同体で絶えず問題として浮き上がってくるのは、戦争に協力した父と戦争の犠牲になりながら新たに生み出すという自然の生業の葛藤する姿が大江健三郎の英雄的人物を批評していく女性たちの姿があったのだと思う。それは3.11で言葉を喪失した作家に新たにエネルギーを与える女性たちの物語として『晩年様式集』を残して大江健三郎は次世代の作家に3.11以降の世界を託したのかもしれなかった。

第3部「新しい時代」の文学に向けて――3.11の「その後」をどう生きるか

3.11以降に川上弘美『神様 2011』や多和田葉子『献灯使』が書かれることになる。震災は「震災後文学」という新たなパラダイムシフト(転換期)となっていくのだった。その中で日本では女性作家が注目されるようになっていく。

ただ震災後に喪失した言葉を新たに詩の言葉で鼓舞していく作家たちがいたことを忘れてはならないだろう。この本の中に紹介されている震災後の作家たちの詩ほど力強いものはないと思う。それは大江健三郎が「原爆」の後でも自然の生業を見出していく井伏鱒二の希望かもしれない。




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