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自歌合(じかあわせ)を勉強する。

『短歌研究2024.1月号』

【特集 新春自歌合大会】
第1部 特別対談「『歌論』の真髄。よい歌とはなにか」
馬場あき子×吉川宏志

第2部 現代歌人「ペア自歌合」豪華八組競選・判
馬場あき子×吉川宏志/伊藤一彦×栗木京子/小池 光×永井 祐/平井 弘×土岐友浩/小島ゆかり×北山あさひ/川野里子×大森静佳/今井恵子×千種創一/平岡直子×藪内亮輔 

【1月の新作短歌集】
三十首
島田修三「浮世のけぶり」/坂井修一「大日越」/佐伯裕子「感情移入」/水原紫苑「比翼の天使」 
二十首
香川ヒサ「一つ点せり」/永田 淳「月日の鑿」/佐佐木定綱「生物歌」/工藤玲音「いやです」 
十首
川島結佳子「アルファ化米」/伊舎堂 仁「昨年」/塚田千束「あなたの美しさを見せて」/阿波野巧也「light」/橋爪志保「明滅の旅」/佐伯 紺「ゆきみち」/郡司和斗「B」/平安まだら「コンビニサイズの空」 

【座談会「すべての言葉の表現者のためのジェンダー表現」】
中塚久美子(新聞労連前特別中央執行委員)×澤村斉美(歌人・新聞校閲記者)×中井智子(弁護士)

【対談「『源氏物語』の女性像(前篇)」】
安田 登×三宅香帆 


連載
吉川宏志「1970年代短歌史26」
佐藤弓生・千葉 聡「人生処方歌集 54」
仁尾 智+岡本真帆「猫には猫の、犬には犬の 9」 
工藤吉生「SNSで短歌さがします 26」 

短歌時評=平岡直子「木下龍也の「き」はキリストの「キ」」

作品季評(第129回・前半)=佐佐木幸綱/大辻隆弘/今野寿美
渡辺松男「朱土生壁」/山田富士郎「花鳥風月」/塚田千束歌集『アスパラと潮騒』
歌集歌書評・共選=池田裕美子/棗隆

短歌研究詠草 高野公彦 選
特選=麻生みち子
準特選=大滝慶作/真木麻有/瑞慶村悦子/八木田順峰/樺島策子/志村 佳/谷内文恵/鈴木充江/坂本捷子/松尾徳太郎/望月公子/敷田千枝子/古賀耀子/鈴木八千代/吉田信雄/中原みどり

☆第67回「短歌研究新人賞」応募要項 

第1部 特別対談「『歌論』の真髄

『短歌研究 2024年1月号』から「第1部 特別対談「『歌論』の真髄。よい歌とはなにか」馬場あき子×吉川宏志では、西行の『御裳濯河歌合』と『宮川歌合』という自歌合(じかあわせ)を知った時は、よく判らなかったのは、普通歌合というと右左二手に分かれて、テーマにそって歌人たちが詠み合うのだが、西行の自歌合というのは、西行の歌を右左に分けて、その判を『御裳濯河歌合』なら藤原俊成に、『宮川歌合』はその息子である藤原定家に判を仰ぐのだが、それはその歌を神社に奉納する為の祈願(歌が上手くなりたい?なのか、その目的はわからない)なのである。

そこに西行の同時代である藤原俊成や一世代下の藤原定家の歌論が伺えるということなのだ。その中から馬場あき子と吉川宏志が選択して解説したもの。中世の変動期の和歌の俊成や定家の歌論が西行の歌を通してわかるというもの。

『御裳濯河歌合』七番

左 持
願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月のころ

来む世には心のうちにあらはさむ飽かでやみぬる月の光を

左の西行の最も有名な歌でも西行が生きていた頃だから、そんな予言をするのも何様なんだということで、持(引き分け)になったらしい。その後に西行が釈迦の入滅日の一日後に亡くなったので伝説化された歌なのだ。塚本邦雄もこの歌は否定したのだ。

三番

左 勝
おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかゝる白雲

秋はたゞ今夜一夜の名なりけりおなじ雲井に月は澄めども

俊成は右は「今夜一夜」は言い過ぎで他の秋はどうなる?ということだが、これは西行の恋の歌だから、そう詠むことで一夜の尊さを詠んだとのこと。

十八番

左 勝
大方の露には何のなるならん袂に置くは涙なりけり

心なき身に哀は知られけり鴨立つ沢の秋の夕暮

右は今では名歌とされるが俊成は「心なき身」が気にいらなかった。それは西行が僧侶であるから仏教的な解脱を歌っているのだが、俊成にしてみればそんな野暮なこととなる。ただ下句はべた褒めで「幽玄」とされる情景なのである。

左は涙が露となってこの宇宙に満ち溢れる情況を心が深いと評価するのだった。あっさり歌っているのだが、奥(世界観)が深いと。右の方がいいけどな。俊成は情緒を重んじる歌人だった。

二十八番

左 持
嘆けとて月やは物を思はするかこちがひなる我涙かな

知らざりき雲居のよそに見し月の影を袂に宿らさすべしとは

左は『百人一首』に載る西行の歌だが、なんでこんな歌が代表歌なんだと酷評される定家の無能ぶりを言われる歌。ただこれは失恋の極地の歌なんだと馬場あきこの評。月に向かって失恋を嘆いている。

俊成は歌があるから人は美を感じるという「はじめに言葉ありき」の人だった。日本人は『万葉集』によって四季から美を感じていたという。

定家はまだ26歳ぐらいで、父と同世代の大歌人である西行(当時70歳過ぎ)から判を仰がれるのだから、そうとうびびったという。

『宮川歌合』

十番


風越の峰の続きに咲く花はいつ盛りともなくや散らん
右 勝
風よし花をもさそへいかゞせん思出づればあらまう世ぞ

左の方がオーソドックスで右は区切れも多く自由奔放というのだが、よくわからん。「何となく」という気持ちを大事にする。理屈ではなく感性ということか?これが一番苦手かもしれない。

第2部 現代歌人「ペア自歌合」

自歌合特集だった。これは面白いかもしれない。でも歌合をやればいいのにと思ってしまう。自歌合は内輪的に感じてしまう。当たり障りのない批評で。

左勝
夕暮れの豆腐は籠にしづまりて深く愛さず怨むことなく 

心なし愛なし子なし人でなしなしといふこといえばさはやか

馬場あき子『飛種』収録

左は、馬場あき子さんぐらいの年齢の方なら豆腐には籠ではなく鍋とかボールとか水ごと持っていく豆腐屋で買う豆腐を連想したかったなと思うのである。籠だと水ごとではなくスーパーのパックに入った豆腐だろう。鍋に水と一緒に入れてもらって「しづまり」になるイメージ。そしてその鍋で湯豆腐とかでいっぱいやると怨むこともなくなるのだろうか?

右の方は「なし」のリフレインが出し尽くしたことでさわやかになる人がいるのかな。言われた方はさわやかでもないと思うが。そう言わせておけという心持ちが爽やかな人なのかもしれない。よって左の勝。右勝になっているのは吉川宏志の判定。

左 勝
風を浴びきりきり舞いの曼珠沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ
右 
ひがんばなの先へ先へと歩きゆく最も赤い花に遭うまで

吉川宏志『青蝉』『雪の偶然』

ちょっと関係ない話をするのだが、歌合は、左右が逆なのはなぜ?左、右って実際は右側に左とあって、逆に左側が右になっているのはなんでだろう。前から気になっていたのだが、答えがわからない。まあ、自分も本当は上下なのに左右と書いているので突っ込まないようにしていたが。

左は要はセックスしたいと言っているのだろう。こんな句は取れない!右の方が彼岸に誘われているようで不気味な感じがいい。よって右の勝。


三代の神のごとくに三代の橋架かる一つの濁流の上に
右 勝
ただくらく何も見えぬに見飽かざる世のはじめなる高千穂の闇

伊藤一彦「高千穂の歌」二首

「高千穂」がわからなかった。

左は「高千穂」をそのまま歌っているようだ。いわゆる無難な歌かな。右は「闇」が引っかかる。天照大神が岩戸に隠れたのも闇だし、そういう闇が存在する世というのを歌ったのがいいかな。栗木京子の批評は「見飽かざる」と重ねていることに、闇に魅了されている作者を読み取っている。

左 持
大雨の一夜は明けて試し刷りせしごと青き空ひろがりぬ
右 
青空よミスを重ねし人間がAIに面罵さるる日くるや

栗木京子「青空の歌」二首

左「試し刷り」が何か年賀状みたいなものかと思ったら青空の比喩だった。これは素晴らしいと思う。右は「面罵」がよくわからなかったがネット検索して「面罵」されているように感じたから左の勝。持は引き分けなんだが、これだけ違う歌に引き分けはないと思うが作者に気を使ったのか?判者はAIの句を取りたかったような。「青空よ」という呼びかけとAIの小ささの対比が良いという。栗木京子的には自然を歌った方が良かったような。


砂うごかして伏流水の湧くさまをテレビに見るはうれしかりけり
右 勝
ガダルカナルの一木支援の全滅を深夜のテレビに見終へて眠る

小池光「テレビを見て詠んだ歌」二首

テレビでも時事ではなくドキュメンタリー番組か。たぶん彼は癒やしを求めていたと思うから左の勝だな。右は疲れるから寝るという感じだろうか?


となりの人が奥歯の方でかんでいるガムのぶどうの匂いでねむい

秋がきてそのまま秋は長引いて隣りの電車がきれいな夕べ

永井祐「隣」二首

左はどうでもいい歌だな。勝手に寝てろという感じ。右も秋の隣は冬なのにまだ冬が来ない温暖化なのか?夕焼けがきれいというのは隣の電車に反射しているのだろうか?いや。夕焼けと電車の光景なんだろうな。絵的に右が勝。小池光は隣の電車に乗っている女の子が綺麗だと読んでいる。女の子を夕べに喩えたのか?なんかあったみたいじゃないか?デートの別れなのかもしれないな。その読みはいろいろ空想が広がり面白い。

左 勝
探してゐるのは犬ですけど私もいつしよにゐるかもしれません

絵がどこか変はりますかわかりましたかあなたが居なくなつたのですが

平井弘「居ない歌』二首

口語の旧送り仮名は面倒だな。口語だったら新送り仮名がいいと思った。勝敗には関係ないが。右の方が不思議な感じがするかな。右の勝。平井弘は定形を崩すことをやっているとか。右は句跨りだが、まだ定形を保っているということで、左の方が八六八九の三十一文字でリズムが独特だという。それなら仮名も新仮名にすればいいのと思ってしまう。

左 勝
狂うってよくないですよ手のなかの日が暮れるまで竜頭をいじる

後頭部をつめたい窓にあずければ電車の音が電車をはこぶ

土岐友浩「頭」二首

これもリズムを崩しているのかな。ほとんど定形だった。ただ左の「狂うって」の導入部が面白い感じがする。竜頭に合っている。判者は右の方が歌としてまとまっているが左の破調が勢いがあるということだった。


かたつむりの殻右巻きに右巻きにわたしはねむくなるゐなくなる
右 勝
雨の日は雨のにほひの 風の日は風のにほひの 聖かたつむり

小島ゆかり「かたつむりの歌」二首

定形を疑うこともなく定形に則った模範短歌のような歌だった。左はリフレインの心地よさが呪文のように、右は対句的にこれが正しい短詩の形だと言わんばかりだ。「聖かたつむり」という言い方が好かない。まだ眠くなる呪文の方がいいだろうと勝は左。

左 勝
四捨五入したら北海道はロシア粉薬のごとき雪のくるしさ

人類の初めての針、初めての毛皮の外套(コート)や 雪山の影

北山あさひ「冬の歌」二首

左は「粉薬」はロシアが風邪(戦争)を引いたらの喩えかな。「四捨五入したら」らというのがもうロシアみたいな言い方だな。右は(コート)はオーバーより薄い記事だと読んだことがあり、ここは(オーバー)だろうなと。やを付けた切れは生きているのか?一字空けと重なるので不要な気もする。よって左の勝とするが。穴がありすぎるような。

左 勝
水仙を活ければ白い水仙に向かふ側ありわたしはこちらに

直立し縊死せしやうな水仙の一本の光かなしむばかり

川野里子「水仙」二首

左は白い水仙と黄色い水仙があり白い水仙を選んだわたしという清純さアピールみたいなものか?右は縊死がナルシスの水仙をイメージしているのだろうがやっぱ水死のほうが合っているような気がする。縊死のおどろおどろしさもあるが、さわやかな左の方が川野里子のイメージかな。よって左が勝。大森静佳の批評は右は水仙の花の傾きが縊死している写生なのだと、そうなると川野里子に自殺願望があるのだろうか?「向かふ側」も異界と読む鋭い指摘だった。大森静佳は出来る人だな。


檻のなか歩む丹頂その赤をまなざしに揉むごとく見ており
右 勝
ほっぺたが網戸のように風を吸いこどものこどものこどもがあなた

大森静佳「直喩」二首

左はどういうことだ?窓から見た赤富士だと思うのだが「揉むごとく」がよくわからない。右は「こども」のリフレインが見事だな。初句の「ほっぺたが」の言い方もいい。網戸のように畳の跡を付けて寝ている様子がイメージ出来る。そこだけ特別な空間を作っている母の視線。右が勝だろうな。「丹頂」は鶴だった。動物園だったのか?「まなざいに揉む」も先行の短歌をイメージしているという。大森静佳は出来すぎだな。なかなか読みきれないところがある。

左 勝
切株の裂け目に蟻の入りゆきて言葉以前の闇ふかきかな

スマホから聞こえる声を草はらの蟻や茸のかたわらに置く

今井恵子「蟻」二首

左は蟻の生態を「言葉以前の」という本能が「闇深き」を求めるイメージか?右はファンタジー短歌で「茸」がそれをイメージする。スマホ世代の明るさかな。深いのは左のような気もするので、左の勝。判者の千種創一は結句の韻律が「かたわらに置く」は固すぎで、左の「闇深きかな」は勢いがあるとする。これもなかなかの読みだった。


あなたは僕の幽霊に、僕はあなたの幽霊に、雪の手紙を書いていたんだ
右 勝
雪の積もらない川面を横で見るあなたの声につもりゆく鬱

千種創一「雪」二首

ひだりは散文的な短歌だけど対句が効いているのか。右は積もらないのが「鬱」になっていく「あなたの声」というのは分かるな。右の勝か?右は初句と二句の句跨りでもあったのか。そこまで読めなかった。ただこの句跨りは平凡だな。「ゆきのつも らないかわもを」あまり効果的じゃないような。

左 勝
夢・自衛隊の飛行機・ダイビング・銃弾 会いにゆくためなら

置き配のすかすかの箱 戦争をしてないことにまだ慣れないな

平岡直子「届ける」二首

言葉を・で並べて、戦争アニメのように語るストーリーと、その物語の帰還兵みたいなフィクション。右の方がいいかな。平岡直子は苦手なタイプ。うすかすかの箱はAmazonなのか?面白いな。

左 勝
歌はないことすらも歌 赤蜻蛉とまりてわづかすすきが沈む

言葉にしびれ心のしびれ雨の中、まして夕暮れ 猛毒の友

藪内亮輔「言葉」二首

もしかして左に上げる短歌のほうが作者の自信作なのか?右は実験的な感じがする。猛毒の友は批評家の友ということか?面白い短歌だと思う。左はいかにも短歌だな。完成度は高いが、実験的な右の勝。平岡直子の批評は結構的確のような。左は短歌に読み慣れた者の秀歌なんだよな。右は塚本邦雄崩れの悪あがきとする。なるほど。


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