北面武士の西行のパフォーマンスと見る和歌の世界
『西行百首』塚本邦雄 (講談社文芸文庫)
図書館本。そろそろ返却日が近づいてきてしまったので、ここらでまとめ。塚本邦雄の西行嫌いは有名だったらしい。それでも百首を取り上げて批評をしているのだから無視できない愛憎する西行和歌への感情があったのだろう。塚本は西行の政治的駆け引きのパフォーマンスを西行の和歌に見出すのだ(解説に詳しい)。
短歌から和歌へとその手がかりとしてこの本を読み始めたのだが正直塚本邦雄の批評は難しい。それは『茂吉百首』でも感じたことだが、ただ塚本の眼目は面白いと思ったのだ。茂吉をアララギ派の伝統短歌(写生)ではなく、前衛短歌(幻想)から読もうとするもの。
塚本邦雄が西行を褒め称えるのかと思ったら一首目の超有名歌を批判していた。歌合で藤原俊成(藤原定家の父)は、自我が出すぎで麗しくないとしたのだが、西行が歌通りに亡くなったので伝説が西行神話となって語り継がれてしまった。死を露骨に予言的に詠むのはあざといと言われればそうかもしれない。この桜の歌のせいで特攻と桜が結びついてしまったのかもしれない。
「深き峯」から一直線に降りてくるほととぎすの声が西行のますらおぶりを伝えていると。ただ西行の歌にしては珍しいのだと藤原俊成評。俊成も判定は相手方に与えているので、いいんだか悪いんだからわからん。正岡子規が『歌よみに与える書』で褒めたのはこのような歌だったんだろうと想像する。
褒めているのかけなしているのかわからないが、俊成が新古今集に西行の歌を入れたのは秀作が多く千載集はそれほどでもないとするのだが、その中ではこの歌は良い方だという。それでも新古今集の類想歌に比べると落ちるという。涙というのがセンチメンタルすぎるのか?露は涙と類想するからか。
芭蕉の「むざんやな甲の下のきりぎりす」を連想するが俊成は相手の方を勝ちとして、認めなかったという。その後の時代になり認められるようになったと。塚本邦雄は百人一首の「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」の歌は凡作であるとし、この西行の歌を高く評価する。
『御裳濯河歌合』は負けてばっかの西行だった。それでものちに新古今集とかには入っているのだ。俊成には嫌われていたが後鳥羽上皇には好かれたのか(武家社会になる政治的駆け引きがあったような)?塚本評は、だらだらと句切れがないのが凡作だとしながらも題詠の「恋」で当時は女が待つ歌が主流だったので女身転身歌とする。男でもいいよな気もするが。塚本邦雄は西行の歌というより選者の俊成の判定に不服なのか?
「鐘の音」は朝の鐘で釈教歌(仏教による和歌)で新古今に収録。塚本邦雄は新古今の中でも傑作とする。
『宮河歌合』は、俊成のあと息子藤原定家に引き継がせた歌合。西行に請われたとあるから、西行と定家の結びつきが強かったのだろう。その後の和歌の潮流(「新古今」風)を生み出したという。『宮河歌合』の判定になると定家の西行贔屓が感じられる。それも政治的判断が加わったとするのが塚本の意見だった。そんなところで西行の和歌に対するパフォーマンスに不満だったと思われる。新古今集になると一気に西行の和歌が効果的(名だたる和歌と並べ)に配置されたという。
西行は月の歌を数多く残しているが、「新古今集」で5首連続で西行の月の歌が並べて、西行の存在感を示していた。その中でも上歌は、「われ見ば曇れ」の命令形の荒々しさ、出家僧としての厳しさが伺われると塚本邦雄絶賛の西行の月歌。
西行が18歳で男盛りの鳥羽院(36歳)に仕えたときの男色の歌だという。美少年だった西行が認められてのはそういうわけだったと塚本邦雄は勘ぐるのだが、真相はいかに?
38/78/100の三度取り上げられたと解説にあった歌。「西」は西行の意味だという。西方極楽浄土を向かうの意味で西行は闖入者として、新古今の巻末に置かれた。のちに後鳥羽上皇は新古今集を編纂し直し、西行の和歌の多くを切り捨てた。その中の一首で塚本邦雄はその審美眼を評価するのだ。
注)『御裳濯河歌合』『宮河歌合』も西行の歌を二手に分けて藤原俊成・藤原定家に判を仰いだものだった。それを神社に奉納することで名誉歌人と認められたようだ。「歌合」でも趣が違った。