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「ハリネズミ」と「狐」という二分法の間に「人間」を見るトルストイ

『ハリネズミと狐――『戦争と平和』の歴史哲学 』バーリン (翻訳)河合 秀和(岩波文庫)

古い詩句に「狐はたくさんのことを知っているが,ハリネズミはでかいことを1つだけ知っている」という1行がある.この句の真意はともかく,芸術家や思想家をこの2つのタイプに大別してみると興味ぶかい.さて,ロシアの文豪トルストイは,というと….『戦争と平和』を素材にトルストイの歴史観を探り,天才の思想的源流に迫る.

BBC『戦争と平和』を見たり、ラジオ講座「戦争と災厄の文学を読む」を聞いたりして、原作はまだ読んでないのだがトルストイ『戦争と平和』に非常に興味を覚えた。

【聴き逃し】カルチャーラジオ 文学の世界 戦争と災厄の文学を読む 7月14日(木)午後8:30放送 #radiru https://www2.nhk.or.jp/radio/pg/sharer.cgi?p=1929_01_3795321

それはトルストイの戦争観だろうか?バーリンが言うのはトルストイは「ナポレオン戦争」を大局的に多様性を持って見ていたということだが、保守的(キリスト教的)なメーストルと似た戦争観を持ちながら、教皇や指導者の視点にたつのではなく農民の生活の中に希望を見出す。

主要登場人物であるピエールは、最初ナポレオンに心酔し、戦争(決闘での殺人事件が発端)が無益の殺し合いだと思うとフリーメーソンのキリスト教へと入信する。それはドストエフスキーの「大審問官」に近づく宿命論(運命論)を持つようになる。

「狐はたくさんのことをしっているが、ハリネズミはでかいことを一つだけしっている」(ギリシア詩人アルキロコス)

譬え話の「ハリネズミと狐」だが日本だと狐は悪賢い動物の代表とされているが、ここでは大局的にものごとを俯瞰できる人に当てはめている。「狐」型とされるのが、シェイクスピア、アリストテレス、ゲーテ、プシーキン、バルザック、ジョイス。それに対してハリネズミは一点突破型。まあ、私が「ハリネズミ」をイメージするのは、『新世紀エヴァンゲリオン』でのハリネズミなのであるが。リツコさんは「ハリネズミ」を「ヤマアラシ」としているが同じことらしい。

「ヤマアラシの場合、相手に自分の温もりを伝えたいと思っても、身を寄せれば寄せるほど体中のトゲでお互いをキズつけてしまう。人間にも同じことが言えるわ。今のシンジ君は、心のどこかでその痛みに脅えて、臆病になっているんでしょうね」

ヤマアラシ=ハリネズミが自分自身のヴィジョンで自己中になるが大局的な状況が見えていないので空回りしてしまう。まあアルキロコスはそれでもそれを武器に突破してしまう人を言っているのだ。「ハリネズミ」型はダンテ、プラトン、ニーチェ、ドストエフスキー、プルーストもここなんだな。私が好きななのは「ハリネズミ」型だと思っていた。

トルストイ『戦争と平和』はナポレオン戦争を描いたとする歴史とする見方が主流になっている。それは祖国戦争(ロシア側から見た場合、祖国を守る戦争として語られる。第二次世界大戦の独ソ戦が「大祖国戦争」と言ったように)がプロパガンダとしてナロードニキ(民衆)の戦争と語られた。

そこでは貴族も農民も一体となってナポレオンのフランスに抵抗したのだとされるが、事実はナポレオンの土地解放政策の話に乗って、貴族の屋敷焼き払うものや火事場泥棒のような振る舞いのものもいたのだ。多くのナロードニキは読み書き出来ない人だったので貴族の理想論だけが語られていた。

トルストイは祖国戦争が個人的な欲望の中で自然発火的に火事が起きたとする。『戦争と平和』で描かれるのは個人としての戦争であり、そこにはナポレオンを暗殺しようとするものが、一人の子供を火事から救った。

トルストイのキリスト教的理想主義があるのかもしれない。ただナロードニキが貴族と一緒に闘ったというのは祖国戦争の神話であり、今ではトルストイ『戦争と平和』がナポレオン戦争を描いたとする歴史とする見方が主流になっている。それは祖国戦争がプロパガンダとしてナロードニキの戦争と語られた民衆を理想論として語るのでなく、一人の個人として語る。

トルストイに取って個人の現実の生活が、「思想・愛・詩・音楽・友情・憎しみ・情熱」を伴った合成されたものとして、記述していく。それはフランスでフローベルらが芸術的な純粋運動として描き出したものだ。

トルストイにとってはナポレオンも一人の個人として、英雄として祭り上げられ戦争に勝利しながらも最後は失敗して、セント・ヘレナ島の流罪人となる。彼はこの戦争を動かした英雄でもなければ誰がこの戦争を動かしていたのか?この力を誰もが知りたいと願う。しかしトルストイはこの力の正体を絶対的なものとして描きだそうとしたのではなかった。そこにあらゆる登場人物の感情の衝突があるのだ。

トルストイは経験則から歴史的概念を捉えて、それが一部の指導者や理想主義者によって動くのではないことを知っていた。むしろそう思い込む者の失敗例を描きだそうとした。ここでの貴族は誰もが先行き不明で戦争に蹂躙されていく者たちである。しかしながら彼らが生きた生活も明らかにしていく。

そしてピエールはナポレオンに心酔しながらも決闘によって殺し合いの無意味さを知りフリーメーソンのキリスト教の洗礼を受ける。そこに宗教的喜びを見出そうと戦地に赴くが、敗退していくロシア兵の中にいてモスクワに残って、この戦争の正体を知ろうとする。そこで捕虜となり、一人の農民からパンを分け与えられるのだ。

この最後の段階でフリーメーソンから一人の農民の分け合いの精神へと遍歴していくのだ。そして、ピエールの妻であるエレンは、フリーメーソンの教義の中で死んでいく。

トルストイが『戦争と平和』を描くために影響を受けた人物として、ジョゼフ・ド・メストールがいる。彼の神学上のエッセイからトルストイは影響を受けた。

それは戦争における力(人々に影響を与えている見えざるもの=神)と科学主義や理知的な啓蒙主義を絶対だとするものらの乖離。彼らの誤ちは、それを絶対とするがゆえに見えなくなるある力の存在があるとするのだ。

例えばコロナ禍によるウィルス感染の流れは、いくら科学的な根拠を言ってみても、そこに人々の欲望があるかぎり自然と人間との戦いになっていくのだ。その勝利者であると信じられる者の愚かさについて、キリスト教会が語るある力の存在を信じることの愚かさについて。それは本来ならば厄払いの行為で感染するような人々の愚かさについて笑うに笑えない我々の行為なのである。

トルストイが戦争の愚かさについて語るのは人間の愚かさなのだ。しかしながらそれをフリーメーソンのようには考えたくはないという最後にトルストイの中のハリネズミが動き出す。それは賢い狐との戦いを望むハリネズミの一途さ。そこに人間の個人としての尊さを描き出していく。


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