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近江の君のスピンオフ・ドラマが観たい

『新源氏物語〔中〕』田辺聖子(新潮文庫)

与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子……。名訳は数あれ、これほど読者に身近な現代語訳は正確に語ろう。原作よりもずっと丁寧に書き直して、ひたむきな「愛の形」

政敵の排斥にあい自ら謹慎の意を表し、須磨、明石で流浪の月日を過した源氏は、罪を許され都へ戻る。頼もしい国家の柱石に変貌させる。政治家として権力を拡大する傍ら、源氏は愛することの重さ苦しみしさに敬意を払い、人の世はかなさに目を細められる

須磨から帰還した光源氏は、さらに大きく成長して戻ってくる。それまでは欲望のままに突っ走っていたのだが、須磨に都落ちしてから、そこで神がかり的な力を得て明石の君との間に子供まで出来たのだから心を入れ替えたのだろうか?そのチイ姫が凄く可愛く描かれていた。それはお爺ちゃんである明石入道との別れ、田辺聖子は親の欲望で子供が犠牲になるシーンが丁寧に描かれている。明石の君の母上との別れのシーンとか、この当たりは光源氏の政治的な面が強くなりその犠牲になる明石の君だった。

その当たりから光源氏はその他の女にも優しく接するようになる。最初に振られた尼になった空蝉の面倒さえみるのだ。それはそれだけ包容力が備わったということだろうか?末摘花との経緯は凄まじいけど(どこまでも待つ女)、紫の上に明石の君の子供を預けるのはどうなんだろうと思ったが、それで紫の上の嫉妬が和らぐのであった。

六条院の四季御殿は光源氏の力をまざまざと見せつける。庭の川に唐船を浮かべて女官に舞わせたり贅の限りで、幻想的な桃源郷というような世界。玉鬘の裳着の祝い衣服の贈り物。それに対しての返礼で、また末摘花の律儀さよりも迷惑な贈り物に対する光源氏の歌がシビアだった。

唐衣 また唐衣 唐衣 かへすがへすも 唐衣なる

玉鬘十帖は、玉鬘は自ら行動しない姫だけに(ほとんどの姫がそうだが)、近江の姫の対照的な話はドロドロになる玉鬘の光源氏との関係性よりも、光源氏のライバルである頭中将の産ませた娘なのだが、田舎丸出しの庶民的な関西娘でその早口といわれる関西弁がおっとりとした玉鬘とは対照的で、むしろコメディとしてこっちの話のほうが面白かった。

それは関西弁の使い方かな。庶民的な感じがして、貴族生活の型苦しさを揶揄っているような。最後はお固い夕霧までモーションをかけて断られていた。

最後も黒髭大将も娘の真木柱のエピソードが悲しすぎるので、近江の君のトリックスター(道化役)で終わっているのは紫式部の原作も上手いのか、玉鬘十帖はよく出来た話である。


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