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シン・短歌レッスン28


葛原妙子短歌


川野里子『幻想の重量』

葛原妙子は短歌を否定的な面よりも肯定的な面を見ていた。それが斎藤茂吉の短歌への寄り添いなのであり、人生を肯定的に戯れ短歌も必要だとしたのだろう。「さねさしの」と枕詞になるのは、相模の海でヤマトタケルを身を投げて救ったオトタチバナヒメ伝説の和歌を踏まえている。

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問ひし君はも


模範十首

山田航『桜前線開架宣言』より「花山周子」。歌人一家の三代目だがその言葉の奇抜さは指折りである。

笛の音(ね)の「後ろの正面」流れおり 我はヌードモデルを描きおり
耳もとで蠅のうなる夜(よる) 君がだんだん巨大な人になる
ムーミン谷の色彩が嫌 放射能を浴びたる後の視界のようで
『現代日本産業講座』の角が頭に当たれば即死するなり
正座して「個性を高めるのよ。」とひとしきりうなずく人達に囲まれている
この頃思い出(い)ずるは高校の職業適性検査の結果「運搬業」
木村拓哉知っている顔に似ていると考えて結局それは木村拓哉なり
弟を如何に殺すか思案せし日々を思もいぬ栗をむきむき
もう無理!無理無理無理無理テンパってぱってぱってと飛び跳ねており
ご機嫌な弟のハミング、スピッツから美空ひばりになりゆくあわれ

花山周子の歌を書き写して次第に感動が薄れてくるのは自己模倣ということになるのかもしれない。奇抜な言葉も慣れてくるとそれが美術大学のものであったり弟の関係性の閉じられた社会のように感じる。最近では子育て短歌らしいが、その限界が見えるような気がする。このへんの奇抜な言葉というワードはありきたりな天才を生み出すような気がする。奇抜な言葉を使う歌人は数多くいるのだ。

俳句レッスン

俳句も最近冴えないのだった。刺激がないからからもしれない。もっと俳句を読むべき時期に来ているのかもしれない。今日はそういうことで北王子翼『加藤楸邨の百句』から十句。

静かなる力満ちゆき螇蚸(はたはた)飛ぶ
口といふものあるとき鯉をはなれけり
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
葱切つて潑剌(はつらつ)たる香悪の中
生や死や有や無や蝉が充満す
霧にひらいてもののはじめの穴ひとつ
百代の過客しんがり猫の子も
十二月八日の霜の屋根幾万
鰯雲人に告ぐべきことならず
蟇(ひき)誰かものいへ声かぎり
金蠅のごとく生きて何を言ふ

北王子翼『加藤楸邨の百句』

「螇蚸(はたはた)」が読めなかった。バッタだろうと思ったが。バッタの俳句用語みたいなものだった。こういうのは先例があるものなのだが、これかな?

はたはたも靴の埃もたのしけれ      石田波郷

「口といふ」に特化した鯉の姿の貪欲さ。上手い写生句だ。換喩だけど、本来の鯉の姿から離れる貪欲さ。
「おぼろ」はひらがなの感じなのか?一つの俳句の「固まり」として「おぼろ」という矛盾だが事実だ。言葉が明確に出て来ない俳句作りに経験するようなこと。
「潑剌(はつらつ)」の読みが難しいが分かれば意味が汲み取れないことはない。「香悪の中」そういう関係もある。夫婦だろうか?
「生や死や有や無や」こんな切字だらけでいいんだろうか?と思うがこれは一続きの言葉なのだろう。「や」に蝉の声が充満する感じか?この「や」は反語か。
この「穴」は女陰としているのだがよくわからん。
「百代の過客」は芭蕉の『奥の細道』からだろう。
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり

月日は百代の過客にして行き交ふ年もまた旅人なり

松尾芭蕉『奥の細道』

「猫の子」がしんがりなのは面白い。
「霜の屋根」は捉え所がいい。確かに霜で屋根が白くなっていたりする朝があるような。
「言ふ」の三連発。誰が誰に言ったか省略されているという。最初は己自身に。「鰯雲」の句は戦後のことらしい。
次は己が世界(世間)に対して。先の句の言えないことがあった。
そして、「金蠅のごとく」この三句は関連性があるように思える。

映画短歌

今日は昨日録画して見た『進撃の巨人』(総集編)で。

逃げちゃ駄目だから、戦へと
人間は
人間たちと戦い続け

平和ボケかな。ロシアのウクライナ侵攻から一年。

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