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鶴が飛ぶ名残の川の日暮れかな

暑い雲に覆われている鶴見川。鶴見ということだから、昔は鶴がいたのだろうか?地名に鳥の名前とか残っているのはその鳥の飛翔する姿とか連想して、ギル・エヴァンス「フラミンゴの飛翔」とかのイメージで、最期の一羽が夕日に向かって飛び立っていくのだ。

今日の一句。

鶴が飛ぶ名残の川の日暮れかな 宿仮

今日は「#夏の定番曲」ということだった。ジャズだっら「サマータイム」になるのかな?すでにサマー・ソング特集はやっていた。


だいたいネットカフェに行ってクラシック音楽とか聞いて読書しているのだがクラシックの定番だとドビュシー「海」とかになるのかな?

昨日もネットカフェで読書。ネットカフェのプラチナ会員になるほどネットカフェに通っていた。

そうだ。Amazonの配達されない理由は住所の部屋番号が記入されてないからだった。それまで普通に配達されていたのに、何故だろう?新しい住所にしても訂正されないし、多分パソコンかサイトのバグなんだろう。もう待てないからキャンセルでもいいかな。いろいろとパソコン関係は不都合が出てくるよな。映画のチケットが表示されなかったり。

夕方から映画を観に行ったのだが、最近いまいち映画が多い。どうしたものか?それなりに下調べしたり予告編で面白そうな映画をチョイスしているのだが。予告編はいいところのダイジェストだから、実際の映画だとかったるく感じるのもあるな。昨日もそんな感じの映画だった。

読書はサイード『文化と帝国主義』はオースティンの『マンスフィールド・パーク』が出てきて彼女の小説の舞台は植民地政策によって成り立っている帝国主義文学だという。フランツ・ファノンの小説を読めばその裏側がわかるというような。

そうだった。『源氏物語』もその裏側で受領の荘園政策があるのだった。それは女性の立場と一緒なので「ウェイリー版」の帝国主義文学と相性がいいのだった。オリエンタリズムのモダニズムということで、最初に更衣を「ベッド・チェンバー」と訳しているのは、それなりの女ということなんだった。それが男尊女卑の物語ではなく宮廷ロマンス(物語)と読んでしまうのがオリエンタリズムということだった。

『窯変 源氏物語』「総角(あげまき)」は「ウェイリー版」では大君になっているのだが

総角や さて総角や
広げた腕のその先の
尋の隔ては よいけれど
さて 総角や
寝ぬる隔てはよいけれど
さて 総角や
くるくる転げて よーいよい
一つ所に よーいよい
寄りも合いけり よーいよい
さて 総角や
さて 総角や

という催馬楽の歌があり女を手籠めにする歌があるのだ。その歌を自身の立場と思って悩む大君だが、妹の中君へは生贄(それが女の生きる道というような)のように薫に捧げるのだが、薫は大君を手籠めにしたいので匂宮に譲るという話だった。それで大君の罪の意識というより、自分がこのまま老いて八宮の遺言通りになるのは女房たちの噂に耐えられない(行き遅れのババアみたいな)から自害するのだった。そういう美意識なんだよな。総角がもともと引き出物の飾り紐の意味で、その紐の綾の物語が「総角」ということだった。

妹の「コゼリ」は籠のような入れ物でそれでお届け物をするというような意味なのだ。

サイード『文化と帝国主義』とグラムシの「ヘゲモニー」とか難解用語が出てきて難しいので文学の例えで理解する。

『吉岡実散文抄: 詩神が住まう場所』を詠み終えた。吉岡実の関わった人の随筆みたいなエッセイで、舞踏の土方巽との関わりが出てきて、直接はしらないのだが、その奥さんである元藤燁子がアスペクト館でやっていた舞踏教室には知人が通っていて懐かしい思い出だった。こんな暑い日で発表会みたいなものを見に行く時にまだ会館前だから冷房の効いた公民館に入って休んでいた思い出が懐かしかった。

あと永田耕衣の鯰の俳句の連作が良かった。西脇順三郎との思い出は師弟関係だからそれほどおもしろいとは思わなかった。ただ西脇順三郎が泥鰌鍋が好きだというエピソードがなるほどと思った。泥鰌鍋に豆腐を入れて熱くなるとそこに隠れるからちょうどいい案配で煮えるというのは本当なのかな?

泥鰌鍋
豆腐に逃げ込み
運の尽き
地獄鍋には
逃げ場なしかな

今日の一首。かなが余計かも。詠嘆ということで。

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