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橋本治の「手習」としての『源氏物語』

『窯変 源氏物語〈14〉 浮舟二 蜻蛉 手習 夢浮橋』橋本治 (中公文庫)

美しく豊かなことばで紡ぎ出される、源氏のひとり語り。「源氏物語」の現代語訳だけで終わらない奥行きと深さをもって構築された「橋本源氏」遂に完結。(浮舟二/蜻蛉/手習/夢浮橋)

浮舟二

前の巻からの続きでまだあるのかと嫌になるほどどっちつかずの主体性のない浮舟と薫と匂宮の欲望の争い。そんな中でひときわ注目されるのは浮舟の母の北の方であろう。彼女は受領階級の陸奥守の妻であり、八の宮からは認知されることもない身分だった。彼女が敵意を燃やすのが八の宮の中君であるのは、八の宮に認知されれば浮舟も中君の身分だったろうという妬みがあるのだ。つまり中君を故意におとしめて、匂宮の愛人としか見ていない。それは正妻である夕霧の娘との間に婚姻関係があり、それが匂宮の権力基盤になているからだ。いわゆる中君は二号的立場で、すぐに飽きられるということなのだが、その浮舟が匂宮に言い寄られて愛人契約を結ばされそうなのに母は気が付かない。

母の立場としては薫の正式な後ろ盾を得たことが、これまでの自身の惨めさを上回る女の権力基盤であるわけだが、それも大君の形代であって、薫は浮舟と匂宮関係を知るとしょせん受領の娘にしかすぎない女であると思うのだが浮舟への欲望は見限れないでいる。

その三者の欲望の中で浮舟は転覆せねばならない状態に陥るのだった。それは形代(人形)としての魂の無い存在だった。

蜻蛉

この「蜻蛉」で浮舟は宇治の濁流に身を投げるのだが、ほとんどそのあとは浮舟の正体がないのに物語が語られていく。最初に女として、男に差し出される欲望の対象としての記述があり、それに耐えられなく身を投げるのだった。その遺体がないのだけれど右近らの策略で遺体があるように野辺送りをする。右近は浮舟の乳母の娘であり、浮舟の側近中の側近であるわけだが匂宮の手引をして裏切る。さらに浮舟の葬儀まで偽装工作をするのだがそこに現代っ子のクールな一面を見ているのかもしれない。それと対象的なのが乳母の取り乱した姿で、浮舟がもののけにさらわれたと思っていた。

ここで「もののけ」という存在は不慮の事故に出会ったときになされる安易な解決方法として示されているように思える。乳母ははっきりと現実が見えて無く、想像界にいるのだった。それは北の方も同じで、彼女が考えるもののけは、正妻である古女房らが浮舟の存在を妬んでもののけとなって襲うというものだった。実際にあとで横川の僧都に助け出されるときは「もののけ」が取り憑いているのだが、それが僧侶のもののけだった。

この時代はそうした妄想(蜻蛉=もののけ)が支配する社会ではあるのだが、そこから抜け出していくのが浮舟であった。それは人々の欲望(愛欲)なのだが、仏心を求めたのもそれ故である。浮舟が横川の僧都に直接頼まなければならないのは、横川の僧都の妹尼も母なる邪心があり、かつての婿である中将に死んだ娘の身代わり(人形)として浮舟を嫁に出したいと浮舟を救った命との引き換えにするのだった。この愛情(浮舟に取ってみればほとんど愛欲)が我慢出来ないのだった。結局この時代に自分自身の自我を通すことは自死することと同じなのだ。その別の道としての仏の道である。

手習

「手習」は橋本治が出てくる。語りとしての紫式部に憑依したと思ったら「手習」だという。それは浮舟が出家して、写経するようにただ移していくものだろうか(無論現代語訳として)。もともと橋本治は『枕草子』の清少納言に惹かれたものである。当時の貴族の欲望を肯定して清少納言風欲望のままに生活を楽しむのを良しとした。その裏側については考えもしなかった(男たちの政治や女の愛の裏側)。むしろそのような男の論述は拒否するのだ(『徒然草』における老いの思想)。例えば「光源氏の物語」(『源氏物語』の光源氏が主人公編)は光源氏を一人称で書くことによって、光源氏の権力も愛も欲望のままに肯定していくのだが、それが欲望肯定の物語にならなかった。せめて「雲隠」で空白にした紫式部に対抗して、死(お隠れ)までの物語を示したことだろうか。そのときに語り手としての紫式部が重要になっていくるのだ。そこに光源氏を看取る母(『源氏物語』の母であるという意味)である紫式部を登場させた。

『枕草子』で欠る部分がこの母の視点かもしれない。そして物語は母の視線を通して愛を語っていくのだが『宇治十帖』ではそれとは別の欲望と対立していくのだ。それが浮舟の生き方であり、また紫式部としての物語の欲望である。紫式部は『源氏物語』を反転させていくのだ。それまでの男たちの政治の物語と愛の物語を女の政治の物語と愛の物語へ。女の政治の物語は生まれがすべてであり、そこから逃れ得ない。浮舟は浮舟の母がどう思うと受領の娘なのである。その愛とは捧げ物としての愛、つまり女という身体性を男の欲望に捧げる、その代わりとしてある程度の地位を得るのだが、それは親の力によるところが大である。浮舟ではどうにもならない。だからそこに親代わりとしての身請けがある。薫が浮舟を手にしたのは、大君の身代わりとしての身請けであり、浮舟の欲望は無視される。

浮舟が匂宮に惹かれてそれを愛だと勘違いしたのも浮舟の欲望だったのだが、それも母親に否定されていくのだ。

その二律背反にある程度の解答を示すことになった紫式部は、母性を否定するのだ。これはいまある文学にも通用する概念であった。それを仏教の出家に見出すのだが、橋本治はその解答に満足したとは思えぬ。だから引き続き『平家物語』に手を出したのだと思う。

夢浮橋

「夢浮橋」で一気にまとめられたのはそれ以上に話しの展開がなかったからだろう。浮舟は弟である小君(「空蝉」の自己模倣なのか?)を拒否することで家族というものにノーを言うのだ。それが紫式部の「もののけ」(物語の妖怪)なのである。千年後に物語を「手習」するというのはその「もののけ」に憑かれたようなものなのかもしれない。ここに千年後の『源氏物語』という新たな物語が書かれることになったのだ。それを繋ぐ橋としての紫式部は役名でしかない素顔を見せない女房なのだ。

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