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飛行機や飛行機雲を残しておくれ

もう今年最後にするかな。ゆく年くる年。もうジタバタしても来年になるのだし、昔は正月になると一歳年を取るので目出度いと新年を祝ったのだが今は働いている人もいるのだから正月なんて関係ないと思っている人も多いはず。かつて自分もそう思っていた。正月から仕事がある年がほとんどだったし。

正月を家族でゆっくり過ごす時は両親が生きていて、家族も揃っていたときだった。あの日家族の集合写真を撮りたいと思ったのだ。でも撮らなかった。それから妹が家を出て、父が亡くなり、家も無くなり、母も亡くなった。どうなんだろう。結局人間は死ぬ時は一人だと思ってはいるが、寄り添う人を求めているのだと思う。それが読書だったり映画だったりするのは、ある部分夢を求めているからだ。

昨日読んだオクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』の最後に入っていた『マーサ記』が作家と神の対話でこの世界を良くするにはどうしたら良いか?という神の問いに作家は人間に良い夢を見させ、その世界が良ければそれに満足して、現実では争いが起きないだろうという話だった。それは睡眠剤のように眠らされていい夢を見ることなんだろうか?と考えてしまった。それが夢だと思って目覚めたら虚無感に憑かれないだろうか?争い事よりも虚無感の方が平和でいいということなのか?けっこう今の世界はそうなのかもしれないと思ってしまった。それでシステムにより監視され続ける社会だとディックのSFみたいな話になる。

それと今日読んだのはゴーゴリ『ディカーニカ近郷夜話 前篇 03 ソロチンツイの定期市』。これは青空文庫にあるからKindleで無料で読むことが出来る。

ゴーゴリはペテルブルグの都会人になっているから半分生まれ故郷を馬鹿にしたようなところがある(ウクライナを小ロシアと言うように)。例えばキリスト教徒がキリスト教以前の邪教的田舎を描いた風な感じであり、それが柳田国男『遠野物語』の饒舌体の諧謔的な喜劇となっているように思える。女は魔女だというように。男の胃袋を掴んで結婚した女の話とか日本にもそういう諺があった。

以上が読書メーターの感想。ディカーニカ近郷村の風俗史というような話なのだが、ゴーゴリの諧謔性ある会話と村の幽霊(悪霊)話の風習がとりとめもなく語られているのである。それが悪口なんだが自虐的なところがあるのか、自虐半分、愛情半分みたいな。ペデルブルグの洗練されたキリスト教徒にしてみればそういう村の風習やら料理や酒飲みは悪魔的なものに見えるみたいな合理主義があるのだが、そこに収まらない過剰な饒舌さもまたゴーゴリは愛しているんだと感じられる。ゴーゴリの喪失したゴースト(悪霊)は、『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪みたいなものなのだ。滅びて行ったけど懐かしく愛おしく、都会の合理主義者にとってはうざったく奇妙な風習だったりするのだった。正月だって他国からみればおかしいよ日本人と思われているかもしれないし、クリスマスに大騒ぎするのははっきり他国では奇異な目で見られているだろう。そしてクリスマスの馬鹿騒ぎから急に静寂な形式ばった年を迎えるのだった。

大晦日はその前の雑然とした日なんだけど。そういうことで年越しをする予定だった。昨日買い出しも済ませ、ノリも餅も蕎麦もかったし、そうだ味噌が無かったんだ。味噌ぐらいを買えば正月は過ごせる。そして、今日はいろいろまとめて一日が終わる予定。やりかけの俳句と短歌をこのあとにやって、まとめを12月分と今年分をやって年越しする予定だった。今日の一句。

飛行機や飛行機雲を残しておくれ

最後もダメダメの句だった。

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