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シン・短歌レッス62

今日の一句

初めてみたような。ヤセウツボという怪奇な名前。外来種で寄生植物なんで要注意外来生物に指定されている。群生しているようなのだが、環境問題なんだろうな。名前の特異さと寄生植物という性が嫌われる要因だろうな。今日の一句。

ヤセウツボ嫌われ者でも名があるき

『らんまん』の「名前がない雑草はないき」(正確には「
ざっそうという草はない」だった。かなり離れているが、土佐弁は最後に「き」を付けるような気がした。)「あるき」が「歩き」に繋がる。草は歩かないが誰かが連れてきた?

「うたの日」

『百人一首』本歌

「うたの日」お題。「木」(5/29)

森の奥大木語る誰ゆゑに修羅に乱れて我泣くために

森はないか。街路樹じゃそっけないし、神社かな。

社(むしろ)のおく大木語る誰ゆゑに修羅に乱れて我なくために

結構自信があったのに自信があるとどんまい!なんだよな。ほんとどんまいとしか言いようがない。まあ我の歌は自己主張が強すぎて取られないというデーターはあったのだが。

在原業平の和歌


『古今和歌集 恋』

藤原敏行が雨で女の所へ行けないと軟弱なことを言っているので女に成り代わって業平が詠んだ歌。意訳すると、こんぐらいの雨でうじうじ引き籠もってないでさっさと来いよという感じか。

藤原敏行は、その前にも出てきたが業平の弟分みたいな感じなのか。気弱なチェリーボーイタイプ?

雨は男の恋心を知るバロメーターとしてよく詠まれるそうだ。『伊勢物語』「百七段」では女から手紙を受け取ったと思った藤原敏行が笠も箕もつけずに飛んで行ったとか。面白い。初句「かずかずに」は説明不足の句だがそこに込められたコトバは深いという。中野方子はこの歌を業平ベスト3にあげている。他は「月やあらぬ」「忘れては」だというがこれだけじゃわからん。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは

『伊勢物語』

『平成歌合 新古今和歌集百番』

(歌合十一番)
わが庭に色なき風のふきそめて別れの袖は荻が花ずり
白妙の袖の別れに露落ちて身に染む色の秋風ぞ吹く

別れの歌なのは共通している。が、左は荻の花がすり込んでいる感じ。右は秋風が吹くという寂寥感。これは定家の歌風だと思う。右定家で勝ち。当たり。

(歌合十二番)
黒髪の長きみだれを掻きややれば指(および)にからむ君がいとしさ
掻きやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ

これは先日やったから覚えている。左が定家の歌で女の髪の感触が残っているという歌だ。右は臥す面影が立ってくるという情念の歌か、こっちの方が好きかもしれない。なんだよ。右が定家だった。先日やったばかりなのに。定家は6勝6敗で定家は得意だと思ったがこの程度だった。

(歌合十三番)
あしひきの山沼の薄氷(うすらひ)とけそめて春設(ま)くる木立水面に揺(あゆ)く
岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔のした水道求むらむ

次は西行との歌合。難しいぞ。西行と言うと益荒男振りの鎌倉和歌というイメージだけど、塚本邦雄によれば僧侶のくせに手回し好き(思わせぶり)だということだが、右は複雑すぎる気もするが、引っ掛け問題かもしれない。左の方が素直な歌のような気もする。ただ右の方は写生で、左は内面の違いがある。右は正比古、左西行で左の勝ち。「水道求むらむ」は求道心ということだった。西行の言葉。

一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。  西行法師

『明恵上人伝記』

(歌合十四番)
吉野山こぞのしをりの道変へてまだ見ぬ方の花を訪ねむ
弥年(いやとし)に愛(め)でつる桜のありし辺に白き家建ち児らの声する

「弥年(いやとし)」は毎年。古語を使っているがこれは定住の人の歌。左は漂流の歌人っぽいので左が西行法師で勝ち。当たり。しかし、右は定住の歌でも少し意味が違って、毎年訪れる桜の木は切られて白い家が建っていたというような意味だそうだ。無常観を詠っているのだと。やるな正比古。

(歌合十五番)
道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそたちとまりつれ
沢風の立てる垂水にしばしとて清水掬(むす)びぬ袖沾(ひ)つままに

芭蕉の句に西行の歌を訪ねた柳の歌があるのだが、あれは清水流るる場所というより田んぼだったので引っ掛け問題だろう。両方とも清水の歌で右は法師の歌にしては軟弱なんだが、出家前の歌かもしれない。よって右西行だけど勝ちは左。

左はその芭蕉の遊行柳の歌だった。田んぼだったが小川が流れていたんだ。そして「遊行柳」という柳が歩くわけがないのだが、その風景が変わり果てたということだろう。「遊行柳」の推測までは良かったのだが、風景は変わるという句だった。

田一枚植えて立ち去る柳かな  松尾芭蕉

『おくの細道』


(歌合十六番)
世の中を厭ふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむ君かな
仮の世のかりの宿りをいなびられええ口惜しとかこつひとかな

左が西行なのだが「かたからめ」は、「難(かた)からめ」で難しいの意味。君は相手に対して言っているのだ。僧侶としてはどうなん?と思うが右はその口惜しさを詠んでいた。左は山頭火の歌でもいいような気持ちがつい出てくるのは煩悩というわけでそれをいつまでも根に持つものでもないと思う。だから左西行で右は正比古。ただこの宿は遊女の宿だったんだ。遊女の断りの歌に返したのだという。謡曲『江口』となった西行エピソード。

世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ

(歌合十七番)
うとくなる人を何とて恨むらむ知られず知らぬ折りもありし
知らざれば執(しふ)することも無かりしに知りてぞ泥(をづ)む人の常かな

恨まれていることを知らずに疎い人と、知ってはいるがあえて泥を被る人の常かなと詠っている左の方が西行らしいかな。右は一般人の歌だよな。違った。「うとくなる」は「疎遠になる」の意味だった。左の方がそこに拘泥してしまう人を詠ったのは当たっていたが西行は一般論を詠っていた。正比古はその先を詠むから難しいな。西行が単調に思えてくる。

歌合一八番
別れむといひし言の葉いくそたびかたみになさけの露もかれぬに
今ぞ知る思ひ出でよと契りしは忘れむとてのなさけなりけり

恋の歌なのか?左は別れの言葉を幾度も言って情も露のように涸れたということか。右は今だからあの契だけは忘れないのは情なのだろうかの意味。単純に考えて左が西行で左の勝ち。違った。右は相手が忘れてしまうのが情けだという(逆の意味だった)。左は「涸れ」に「枯れ」「離(か)れぬ」という掛詞になっている。

(歌合一九番)
散る花はまたくる春をたのめどもたのむ春なきわが身なりけり
世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ

この花は桜。左は潔い感じでもないな。右はうろ覚えだけど西行の歌のような気がする(桜に託す潔さがある)。右西行で勝ち。当たり。

(歌合二十番)
風になびく富士のけぶりに消え行方も知らぬわが思ひかな
富士が嶺(ね)のけぶり絶ゆれどわが思ひ明け暮れ君が空になびけり

富士の歌対決。富士のけぶりを歌のは西行には古風すぎないか?右は「絶ゆれど」と言っているのだけどこれは恋の歌だ。左の方が僧侶らしいが左が西行だけど勝ちは右かな。当たったが西行が二度目の奥州旅行の途中で富士はまだ煙を出していたという。空想かと思ったが実景だった。

今回も五勝五敗だった。正比古は研究者だから上手かった。似たような本に『百人一首と遊ぶ』もあった。昔からそういうことで和歌を倣ったというのはすでに行われていたのだ。


山頭火の自由律

「絶望名言」で山頭火来ました。

【聴き逃し】 ラジオ深夜便▽絶望名言アンコール 5月29日(月)午前4:05放送 https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=0324_07_3864342

#radiru

鉄鉢の中へも霰(あられ)
冬雨の石階のぼるサンタマリア
寒い雲がいそぐ
ふるさとは遠くして木の芽
笠へぽつとり椿だつた
さくらさくらさくらさくら散るさくら
あざみあざやかなあさのあめあがり
けふもいちにち風をあるいてきた
何がなにやらみんな咲いてゐる
あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
あるけば草の実すわれば草の実

乞行で施しもなく寒さのなかに霰しかないという。「いやじゃありませんか」という流行歌が流行ったとあるがそれはあまり関係ない気がするのだが、不景気だったということだ。

「サンタマリア」なんてモダンすぎて葛原妙子連想してしまう。長崎で詠んだので不思議はないのだった。天主堂を礼拝しているのは山頭火は厳密な僧侶でもなかったからだろうか?そしてキリスト教の関心もあったという。出家するときに別れた妻に聖書を渡したという。なんかロマンチックだ。

山頭火らしいと言えば「雲」とか「空」を詠んだ句だと思うのは、そこに放浪のイメージが強いからだろう。この句も長崎で法衣を脱いで、借り物の軽装で街に繰り出し娼婦に声をかけられたと日記にしるしていた。

室生犀星の詩の真似か?木の芽は春の季語だから、多少感傷的になったのかもしれない。長崎時代はけっこう体たらくであったらしい。そこが人間味なのかと。この時の日記に「父と弟の夢を見た」とある。父は憎しみの対象であり、自殺した弟は同根の存在。気弱になっていたのかもしれない。

「椿」は不吉の象徴であるという。この頃山頭火は体調を壊していたらしい。同じような有名な句にとんぼがあった。

笠にとんぼをとまらせてあるく

そっちが乞行としては理想の姿なのか?山頭火も迷いの俳人だという。西行を意識してのさくらの句だと思う。花見の句だが自選集から外されたという。自選集のさくらの句は

さくらまんかいにして刑務所

でも遊びの句でもいいような気がするが。人間なんてそんなもんだよな。

「あざみ」の句も言葉遊びの句だが、人間の歌は本来そのようなものだった。このリズムの心地よさ。山頭火もリズムを重要視している。

「行雲流水」のごとくというのだそうだ。そういう句。だけどそればかりでも面白くないよな。

句としては「何がなにやら」の驚きの方が好きだ。友人の医者、木村緑平を訪ねての挨拶句であったようだ。その緑平の句。

木の芽に月がある泊まつていただく  緑平

「金鳳花」は乞行も順調の時期で、緑平の家で寛いでいた後の旅立ちの句だった。それを諫める草の実の句も。両方の気持ちがあって、人間だと思うのだが、金鳳花の句は諌めていたのだ。「草の実」は『らんまん』の万次郎みたいな句だった。

俳句レッスン

自由律ばかりやっていると有季定型の俳句が作れなくなると思って川名大『現代俳句上』を借りてきた。俳句の通史的に著名な俳人と句の紹介。一通りこれで学べるのではないか?
最初に高浜虚子だった。正岡子規じゃないのか?子規から虚子と碧梧桐に別れるのだが、碧梧桐は芭蕉の流れにある漂流の俳人であり虚子は子規の流れにある定住の俳人だった。まあ子規が病気で動けないのもあったが、俳句の才能としては碧梧桐の方があったのではないかと思える。

面白いのは碧梧桐の方を「印象鮮明な写生句」としていて、虚子の方は空想的で浪漫的と捉えているのだ。それは虚子が夏目漱石のように小説を書きたかったということだ。そうして虚子が俳句から遠ざかっていた時に碧梧桐が新興俳句を起こした。それに我慢ならなくて俳句に戻ったという。

そして守旧派をもって子規の後継者になったのである。そこで見出していくのが「花鳥諷詠」という手法。和歌の世界からの継承ということなんだが、それが日本の精神と繋がり戦時翼賛の片輪を担ぐことになる。そのことを桑原武夫「第二芸術論」で批判されるが、無視した。それはやはり日本精神という拘りがあるからだろうか?

遠山に日の当りたる枯野かな
桐一葉日当たりながら落ちにけり
金亀子(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな
白牡丹といふといへども紅(こう)ほのか
流れ行く大根の葉の早さかな
石ころも露けきものの一つかな
山国の蝶を荒らしと思はずや
爛々と昼の星見え菌生え
彼一語我一語秋深みかも
去年今年貫く棒の如きもの

川名大『現代俳句上』

芭蕉の辞世の句に対するものだが、遠山に日が当たっているで切れている、その目前に枯野があるという句なのだ(当山の枯野ではない)。つまり芭蕉の光に対して目前の枯野(子規だろうか?)を取るということだ。遠山と枯野は対比された句だという。晩年虚子はこの句を気に入って私の人生であると言った。

写生句の本領というような句だ。スローモーションのように光が落ちていく桐の葉を捉えている。ただこれも漢詩の「桐一枚落ちて天下の秋を知る」の模倣だそうだ。漢詩の方はイメージだった。全くの写生という句ではないのだ。文学的経験がその背後にある。

難しい漢字を使うから馴染めない。「金亀子」が闇の虫なのだ。そして近代的な明るい部屋に作者はいるのである。闇になげうつのだが、その闇を愛する俳人でもあるのかもしれない。

「白牡丹」の句も写生句の傑作とされる。「といへども」の屈折性。言葉の不信感から来るものだという。「白牡丹」は「はくぼたん」と読むべきなのだそうだ。そのへんは言葉に拘る。だから「紅」は「べに」ではなく「こう」なのか。最初のもフリガナ振っておけ!ただの写生句ではなく、構文的に否定して新たな発見を述べて膨らませている牡丹なのである。

これも虚子の写生句の傑作と言われるが、一行の切れなしの構文で早さを伝えているのである。また「葉」と「早さ」のは行の音韻という、そのへんはテクニシャンなのだ。ただの写生句ではない。

「石」の持つ硬いイメージから露を引き出す。花鳥諷詠の真髄と言われているが、石の背後には宇宙的風景が広がって概念の句と言ってもいいかもしれない。

これも「蝶」のイメージから遠い「荒らし」という対比を用いている。案外虚子は概念の人なのかもしれない。二項対立の世界だよな。

「昼の星」と「菌」の繋がりがよくわからん。ただ二項対立としたのならば最も遠い存在を持ってきただけなのかもしれない。「黴」でもいいような。「菌」の音韻だろうか?「松茸発想説」なんてものもある。「菌」は「きのこ」と読むんだな。

虚子の特徴は写生句よりも対比させることにあるようだ。そして四季(花鳥諷詠)で包む世界。

「去年今年」も対比して一つの世界で纏めている。これは写生句じゃないよな。

今日の有季定型。

やせうつぼ生きるも死ぬも五月雨(さつきあめ)

五月雨(さみだれ)や生きるも死ぬもやせうつぼ

こっちの方が生態系が乱れた感じか?

本歌取り映画短歌

今日のお題。『ゴダールのマリア』

『百人一首』

五月雨に濡れても威厳
マリア様
大理石でも水に滴る

本歌からは、かなり離れてしまっている。

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