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あじさいや家出娘の七変化

昨日も朝からこむら返りで引き籠もり。肩も上がらなくて、キャベツ刻んだときに指を切るし散々な一日。まだ切れない包丁で爪の部分だったので対して深くはないのだが痛い。

「シン・短歌レッスン」をやり残していた。やることが多すぎるのかもしれない。「シン・現代詩レッスン」はその日に詩だけでレッスンしているので、やればすぐに出来るのだった。「シン・俳句レッスン」もやることが多くて週2ぐらいになっているのか?

坪内稔典編集『短歌の私、日本の私 現代短歌と日本人5』は以前読んでいたことに気がついた。あまり覚えてないのだが、なんか知っていることが多いと思ったらそういうことだった。別の巻に借り直してこなくては。

短歌では作中主体が「私性」のように捉えれているのは、一人称ゆえなんだと今さながらに知った。俳句だと「私性」を排除する(現代俳句はそうではないが)傾向にあるので、三人称的な物語が出来ると思ったのだ。寺山修司の俳句で、虚構であることは当然の指示を得たものだと思っていたが、それは違った。例えばここで日記を書けば、作者=私になるのだった。そのような作中主体は作者を通した目というその目=作者が目とは感じられないぐらい共感させるということらしい。そのことが俵万智が自己プロデュースで俵万智(前向きな健康女子から母親)になることであったのだ。

もっとわかりやすい例で言えば永田和宏と河野裕子の相聞の短歌は、結婚してからも相聞を作り続けるのは私(永田和宏)しかいないとの発言である。多分世間的には釣った魚には餌をやらない式の男の論理があるのだが、永田和宏は河野裕子の相聞に付き合うのである。それは実人生よりもフィクションとしての物語じみていると思えるのだった。たぶん永田和宏の意識の中には光源氏的な物語世界があるのだろうと思った。そういう幻想は途中で壊れるものだが、何故か河野裕子の死によって強化づけられた。TVでおしどり夫婦を演じなければならない芸能人みたいだ。

もともと歌がそういう芸能の部分だとしたら、それもいいのだろう。それが河野裕子の日記を公開するとか(その編集作業はあるのだろうが)、死後も二人の物語を読ませ続けて感動させるのである。その部分でセンチメンタルであると思うのだが。その役割を死の直前まで演じ続けたという河野裕子なのかなと思う。それはある部分ヒロイズム的であるかもしれない。

例えばそれが芸能家族のように子どもたちを巻き込んだものになりはしないかと。歌人家族というもの。俵万智の息子がNHKドキュメンタリーで出演することを拒否していたが、それは正しい彼の道だと思うのだ。それでも母は息子の短歌を詠むのだろうけど。ただ永田和宏歌人一家は子供たちも歌人であった。どんな歌を詠んでいるのかは興味があった。

作中主体から話がそれてしまったが、そういう中心的な物語があるということだった。例えば永田和宏も河野裕子も宮中歌会始の選者であるという天皇制の元にいる歌人だということを金井美恵子が批判していた。今ではそういう批判(批評)も無きに等しいのだが。

『光る君へ』は(21)旅立ちは面白かった。中宮定子が道隆の死後、その勢力が落ちてゆく中で藤原伊周の失墜と定子の出家という物語。そのなかで清少納言が『枕草子』を書くエピソードに繋げていた。それまで清少納言役の役者はいまいちかなと思っていたが、この回は光っていたな。そう言えば和泉式部も出てくるのかな?期待してしまう。

録画処理系ではETV特集「サヘルと8人の子どもたち」を観た・サヘルもいまいち伸び悩んでいるような気がする。もっと大きくなりそうなのだが、その善人キャラがアグネス・チャンのイメージが纏わりつくのか。監督業ということなんだが、どうなんだろう。悲劇性を売りにしすぎだと思ってしまう。今はそういう時代ではないんだよな。女子プロ(レスラー)とかの方がいいかも。岩谷麻優のYouTubeが面白かった。『家出レスラー』のヒロインのモデルになった女子レスラーだった。

映画『危険な女』を観た。松本清張原作の1959年日活映画。まだ日活がポルノに入る前で映画産業が盛んだった頃なのか。当時の風俗(エロではなく社会的な)や風景が興味深かった。高度成長期の始まりのような映画。新聞小説だものなあ。今じゃ誰も読まないかもしれない。

今日の一句。

あじさいや家出娘の七変化 宿仮

今日の一首。

あじさいの
色づく街よ
流行歌(はやりうた)
南沙織は
紀信の妻

秋の歌だった。

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