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あじさゐのいろはてさきに東慶寺

紫陽花。紫陽花は花が散らない。枯れ果てていくのだ。実際には花だと思っていたところは花ではなく萼(がく)であるから花は散っているのだという。

https://www.tsm.toyama.toyama.jp/_ex/public/wadai/syoku/no255.pdf

愕然とするな。今日の一句。

紫陽花のいろはてさきに東慶寺  宿仮

実際に東慶寺(縁切寺)に行ったわけではないが紫陽花寺ということで。

紫陽花や
批評はさけて
立ち枯れる
歌ふ人らの
老後の一句

それまで短歌を読んでいた若者が色あせてきてわび・さびに目覚めていく一首?

『短歌における批評とは』を読んだ感想だった。

図書館で一気に読んでしまった。俳句の方が批評を受け止めないで短歌は批評を受け止めていたと思ったらそうでもなかった。批評だとは感じてなかったのか。雑感ぐらいにしか思ってないのかもしれない。

図書館は寒さ対策が必要だな。昨日は自習室が満席状態だった。一階のロビーで本を読んでいたのだが、人の出入りが煩くWi-Fiも使えないのだった。地下の席が開いたので座ったら冷房の当たる場所で寒くて仕方がなかった。わざわざ階段で五階まで昇って気晴らしに本を見に行く(5階は文学書)などしていた。それにしても土日の図書館は混雑しているのだった。

『源氏物語A・ウェイリー版4』は「早蕨」と「東屋」を途中まで読んだ。いよいよ浮舟が出てくるのだが、形代という大君(アゲマキ)の代わりなのだ。つくづく『源氏物語』は女に辛いドラマ仕立てなんだと思った。結局色恋は俗世界の煩悩であり、人が救われるのは仏の道というような。弁の尼が出家したのに貴族的な暮らしをしている(あげまきの遺品を受け継いだので)と浮舟の下女たちに言われるのが面白い。薫と出来ているのか?とか。

「ウェイリー版」は「オリエンタリズム」か?というのが気になったわけでもないがサイード『文化と帝国主義』を借りた(予約本)。あとカフカ没後100年という触れ込みの小説マリ=フィリップ・ジョンシュレー『あなたの迷宮のなかへ:カフカへの失われた愛の手紙』はいまいち面白くなかった。

家に帰ってからカフカ『ミレナへの手紙』を少し読んだが、カフカが理想の恋人として描きすぎるからイメージとして女神のように感じてしまうのだ。それはカフカ目線であり、実際はミレナは小説通りの結婚生活が上手く行かなくカフカという作家の前で愛に飢えた欲望の女かもしれないが、それでは三文小説になってしまうのだった。

映画『去年マリエンバードで』とかイメージ的にカフカとミレナの出会いを描いている迷宮のストーリーで、そういう幻想文学なら面白かったのだと思うが通俗小説になっていた。

図書館に三冊返却して一冊借入だから余裕があった。他に借りてもいいのだけど、また予約本のために余地を残しておくことに。家にも積読本があった。

リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫 上』は一枚の写真からストーリーを語るのがサイードの『パレスチナとは』とか意識しているのかと思って読み始めた(カフカの本を探しているときに偶然読みたくなった積読本)。一枚の写真から、その映像だけでストーリーを組み立てるというのは俳句や短歌の読みのようで作者の意図とは関係なく(読み取りという解釈があるのだが、その作業をサイードは批評とするのだった)面白いかなと思った。

あと「シン・現代詩レッスン」で読み始めた『アメリカの詩を読む』もそういうことなのかも知れないと思ったが、この本は詩の統辞論(文法技法)や形態論(韻律論)になるのか、ちょっと難し過ぎた。ポーの詩も『ヘレンに』はいまいちのような気がする。やっぱ『アナベル・リー』だよな。

YouTubeで原文の朗読が聞けるのだが、『アナベル・リー』の方が素人目(耳か)にも面白いような。「アナベル・リー」をどうやって嫌らしく欲望的に発音するかというのは、『ロリータ』を読んだからかも知れなかった。

これから「シン・現代詩レッスン」と「シン・短歌レッスン」をやる。その時に『短歌における批評とは』の読書感想文も。読書感想文ではなく批評にしていかなければ。

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