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『ワーニャ叔父さん』をめぐる冒険

『ドライブ・マイ・カー』(日本/2021)監督濱口竜介 出演西島秀俊/三浦透子/岡田将生/霧島れいか

解説/あらすじ
舞台俳優であり、演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていたが、妻はある秘密を残したまま突然、この世からいなくなってしまう。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は、愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福はみさきと過ごす中、それまで目を背けていたあることに気づかされていく…。 作家・村上春樹が2013年に発表した短編小説「ドライブ・マイ・カー」の映画化。

映画の中で様々なストーリーが絡み合っているからどれかが面白ければいいんだけど詰まらない人は詰まらないかも(179分という3時間の長さも耐えられない人はいるかも)。村上春樹の主人公らしく面倒くさい男だった。へんな所で泣くし。あーゆーのは母性本能をくすぐるのかな。最初はポルノ映画かと思うほど濡れ場が多めです。エロス的表現なんだが。

村上春樹の原作は読んでないのだが短編にしては長いと思ったら、演劇の部分は脚本で加えてあった。私はそこが一番面白かった。最初に『ゴドーを待ちながら』の舞台シーンで、続いて『ワーニャ叔父さん』は稽古風景からみせる。劇中劇になっている脚本。それで脚本賞受賞だったのか?そういえば、濱口竜介監督の代表作『ハッピーアワー』もそういう映画だったことを思い出した。そこは濱口監督の流儀なのだろう。

劇中劇にすることで、ライブ感覚の緊迫が映画には出る。稽古シーンでは脚本の素読みからで、そこはチェーホフ『ワーニャ叔父さん』なので、もともとチェーホフ文学が持っている言葉の力、朗読でも情景が浮かんでくる。それ以上にチェーホフの演劇が対話劇であるということ。この映画も会話中心にドラマが進んでいく。

最初の演劇シーンがベケット『ゴドーを待ちながら』でそれは舞台なのだが、もう舞台に一本木が立っているだけでベケットだとわかる演出。この不条理劇は映画の根底にあるテーマとなっている。カタストロフィーの中の人間存在。彼らは何かを待っている。しかし、ベケットの不条理劇ではそれはやって来ないで喜劇になっているわけだった。カタストロフィーの後で、何かを待つというテーマは、濱口監督の代表作『ハッピーアワー』でもそうだったが、『寝ても覚めても』もそうだった。黒沢清監督『スパイの妻』で脚本に参加したのも、ある部分カタストロフィー的世界だ。

そのベケットの後にチェーホフの人間愛。それは人間の中の信頼性を取り戻すための演劇。家族愛というのか?そうだ、家族をめぐる話でもあるのだ。妻との関係と親子関係。ドライバーの娘とは疑似家族化していくのだが、『ワーニャ叔父さん』で役者は疑似家族となるのだった。最初は職業的に接しているが舞台やクルマという中で疑似家族化して信頼関係を築く。

「ケア」ということ。「ケアする」ことは今の社会で必須のテーマとなっている。老人介護やコロナ禍でのケアーする社会(実際は日本にはそれが難しい社会ななのだが)。カタストロフィーを受けた人は、傷つきやすく一人で立ち上がるのも難しい(自助が出来ない)。年老いてくるとなんでも一人で出来ると思っていた若い頃とは違う。今読んでいる鷲田清一の本も臨床哲学のケアーについて語っている本だけど、村上春樹と臨床心理学の河合隼雄の繋がりはケアの心理学だった。

村上春樹の文学的テーマであるカタストロフィーからの回復というテーマ。そこに人間愛があるのだ(胡散臭いとみる人もいるだろう)。それがチェーホフ劇だった。だからベケットよりチェーホフの文学に近い。車の中で亡き妻の声とチェーホフ劇を繰り返し聞いていたのも喪失からの回復ということだ。

そして天災だけがカタストロフィーでもない。ある部分、人間が犯した犯罪もそうだ。妻のドラマの脚本のストーリーは、犯罪小説だった。無力の少女が暴行した男を殺す話。正当防衛だが、少女は犯罪者としての自己を責め続ける。その解答的なものが『ワーニャ叔父さん』。ソーニャは無力な少女なんだが、最後は彼女が叔父さんを救うことになる(妻のドラマ脚本とは逆の形だが、救いをテーマにしているのは同じ)。映画と一緒だ。村上春樹の短編はそういうことだ。

岡田将生演じるタカツキは、村上春樹の小説のキーマンであるワタナベ・ノボル的存在。悪を体現しているのだがタカツキのキレやすく感情をコントロールできない若者が増えている現実社会でもあった。そういう意味では、タカツキは要注意人物だ。主人公と対になる。主人公は感情を抑え込んでしまうタイプの人。そして、彼女も。

『ドライブ・マイ・カー』を検索していたら「車をめぐる冒険」とかのレビューが出ていて笑ってしまう。「『ワーニャ叔父さん』をめぐる冒険」ならわかる。まあ、ネタバレ的ストーリーが言えないのはわかるが、あまりにも短絡的な解釈だ。ごめん、映画のレビューじゃなく村上春樹の短編レビューだった。短編は読んでないのだが「クルマをめぐる冒険」というのはわかる気がする。村上春樹の短編を読んでいくより『ワーニャ叔父さん』を読んでいくことをお勧めします。この劇のセリフが重要だから。

そういえば音楽が予告編と違っていた。予告編の音楽はベートヴェン?だけど、それは流れていなかった。最近こういう予告編が多い。CMだから別に編集するのだろう。ジャズはサッチモが流れた。音楽は需要です。

【聴き逃し】カルチャーラジオ 文学の世界 生誕200年 ドストエフスキー・現代へのメッセージ 8月19日(木)午後8:30放送 #radiru https://www2.nhk.or.jp/radio/pg/sharer.cgi?p=1929_01_3721156

「コキュ」から『ドライブ・マイ・カー』を読んでいくのも面白いかも。コキュは、寝取られる夫で妻と愛人の関係を知ってしまった男。映画でも家福の妻の音は、仕事関係のタカツキと関係をもってそれを覗き見してしまう。欲望の三角形。欲望の模倣するのはタカツキなのか?浮気を見て欲望するのだ。

妻との関係がテーマでもあるけど、喪失は浮気される以前から、二人の子供を亡くしてから妻は夫との性的関係は喪失して(生産性がないセックス。妻のセックスは現実の生殖行為からただ終わりのない満たされぬ欲望へと拡張していく)、そして唯一夫に物語を聞かせることによってエクスタシーを感じる。夫の欲望(作家=演出家)を模倣したということなのか?タカツキは役者なわけでそれを見せることによって妻の前で演じていた。そのセックスは無益ではあるが、タカツキの役者としての才能を物語っている。

妻の物語はある重要な部分は夫には語らなかった。本当はその話があるはずだったのだが、夫がドライブして避けたのだ。だから妻は愛人のタカツキに物語を語った。それは罪の物語。ドストエフスキー的テーマなんだけど、チェーホフの芝居でドストエフスキーショーペンハウアーのあとに来るのがソーニャの愛のセリフだった。

絶望した家福とタカツキは実は同類で、裏表だったのだ。だからタカツキのワーニャ役を家福が引き継ぐことになる。その時の映画のソーニャ役は言葉が喋れない。韓国手話で思いを伝えるのだ。正確に言うと手話はボディーランゲージなんだ。彼女が元ダンサーというのが重要な伏線になっている。

家福の『ワーニャ叔父さん』は多言語のコミュニケーションの「可能性」演劇だった。各個人がそれぞれの母語で語る芝居は、わからない言葉でのコミュニケーションは今の世を表している。それぞれのバックボーンの世界の言葉でやり取りしているのだ。

だから一見(じゃないな一聴か?)言葉をしゃべれないソーニャが言葉以上の言葉を伝えるのに感動するのだ。それが「愛」なんだろうけど。欲望を超えた「愛」だった。

wikiで調べたら、チェーホフ『ワーニャ叔父さん』のセリフが出ていた。

「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」

泣ける.........。全オジサンが泣いた。でも現実にはそういうソーニャはいない。

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